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法主日如上人猊下御指南抄 
 
                                            年度 / 22~29 30~r2     
                          
 
 
 平成二十九年十二月
私達日蓮正宗僧俗の真実の報恩行とは、三大秘法の御本尊様を御建立あそばされた大聖人様の大慈大悲をお心とし、不自惜身命の信心で破邪顕正の折伏を実践するところにあることを、よく明記するべきであります。
          平成二十九年九月三日 於 総本山 
 
  平成二十九年十一月
お題目をしっかり唱えて折伏する、これが私達の信心の原点であります。
 それが、世の中のためでもありますが、同時に、自分自身の一生成仏のためでもあるわけです。このことを念頭に置いて、これからもしっかりと頑張っていただきたいと思います。
        平成二十九年五月二十八日 法華講夏期講習会第二期の砌
  
 十月 
結局、折伏は、出来ないのではなく、やらないからできないのです。だから、やれば必ず出来るのです。大聖人様の弟子檀那たるならば、たとえ一文一句なりとも、折伏することが肝要であります。『諸法実相抄』のなかで、大聖人様は、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と、たとえ一文一句なりとも折伏をしなさいとおっしゃっております。
        平成二十九年五月二十八日 法華講夏期講習会第二期の砌 

 九月
 折伏は、間違った宗教への頑迷な執着を取り除き、真の幸せを招来する正しい信仰に導き入れる最善の方途であります。それだけに、単なるものの勧誘とは異なり、相手の命に食い込む真剣な対話がなければならないのであります。折伏する側の言葉、態度が相手に与える影響は極めて大きいことを知らなければなりません。
 したがって、折伏に当たっては、まず己自身が大御本尊様の広大無辺なる功徳を拝信して、絶対的な確信を持って唱題に励み、その功徳と歓喜をもって折伏に当たることが肝要であります。
        平成二十九年七月二日 於 総本山

  

 八月
 常に信心を中心にして対処していくことを、きちんと頭の中に入れておかなければだめなのです。何かあったら、お題目で乗りきる、折伏で乗りきる。これはあらゆる事に通じます。これが、我々の信心ななのです。
 人生にはいろいろなことがありますけれども、信心の根本をしっかりと持っていれば、きちんと御本尊様に対する絶対信をもって一生懸命にお題目を唱え、折伏することによってどのような大変な問題も乗り越えていくことができるのであります。  
       平成二十九年五月二十一日 於 総本山
  
 七月
 厳しい戦いであればこそ、困難を乗り越え、戦いきって請願を達成した時の喜びと充実感は計り知れないものがあると思います。かつ、様々な障魔や障害を乗り越えて、請願達成に戦っていくことは、一人ひとりが御本仏大聖人様の弟子檀那として、御遺命を拝して広布の戦いに挺身しているわけでありますから、その功徳はまことに計り知れない大きなものがあると存じます。
 されば、皆様には誓願達成へ向けて、なお一層の御精進を願うものであります。   
      平成二十五年八月度広布唱題会の砌
  
  六月
 徳を積むことは、まことに大事なことであります。同じことを言っても、徳のない人の言葉は相手に通じません。まさに徳を積むと言うことが、非常に大事なことでありまして、その徳を積む秘訣こそ、唱題であります。
 しっかりとお題目を唱えて、妙法の功徳を我が身に植え付けていくことが大事なのです。 法華講講頭会でのお言葉
 
  五月
  よく聞く話ではありますけれども、折伏できない理由に折伏できない理由に「小さい支部だから」「都会と違って田舎だから」「大きい支部だから」「いくら言ってもみんながやらないから」などなど、これは愚痴ではあります。愚痴を言って、負けた理由を他人に転嫁するようなことは、かえって講中の和を乱し、ますます泥沼化するだけであります。  法華講講頭会でのお言葉
  
 四月
 我々は人間に生まれてきて、そして何をなすべきなのか。(中略)やはり世のため」人のために尽くしていくということが大切なのであり(中略)我々が折伏をするのは、やはり一切衆生救済という慈悲行に徹するからであり、世のため、人のためなのです。そこに尽くしていくところにまた、己に尽くす因が篭められてくるのです。
        (折伏要文59頁)
   
 三月 
 折伏をしてそのままにしておくことは、あたかも赤ん坊を産んでそのままにするようなものであり、これほど無慈悲なことはありません。また、育成をおろそかにするようなことがあれば、まことにもって、その人に対しても、また自分自身に対しても無責任極まる行動となってしまいます。
        二月度  広布唱題会の砌
  
  二月
 謗法に接触したならば、我々は折伏をすればいいのです。
折伏をしないで、まあまあ、やあやあと、お世辞ばっかり言って付き合っていると、やはり仏罰が下りますよという事です。
 大聖人様の教えは、非常に厳しいところがある。けれども、本当に私たちが幸せになろうとするならば、やはり謗法は絶対にしてはいけないのです。
 創価学会の姿を見てご覧なさい。
 戒壇の大御本尊様に対する信仰を否定してしまった。初め皆さん方も、その差は少しだったと思うかも知れません。しかし、何年も経った今はどうでしょう。完全に邪義邪宗そのものでしょう。学会自身も昔は、そういう謗法を破折していたのです。しかし今や、破折していた邪義邪宗になってしまった。だから、やはり小さな謗法から、しっかりと気をつけていかなければならないのです。
          大百法29年2月1日 教徳寺移転新築の砌
   
  平成二十九年一月
 折伏と育成は一体であり、折伏した人を正しく育成していく責任は、折伏した人は勿論のこと講中全体の責任であります。
 講中が折伏と同様、組織を挙げて育成に取り組むことによって、はじめて激烈なる広布の戦いに耐え得る強靱な組織が構築され、更に教線を拡大して一天広布に向かって大きく前進することが出来るのであります。
         平成29年1月1日 新年の辞より
  
  十二月
 大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「善なれども大善を
やぶ()る小善は悪道に堕つるなるべし」(御書 三二三㌻)と仰せであります。すなわち、自分だけの幸せを求める信心は、たとえそれが善であったとしても、その善は「大善をやぶる小善」であり、「悪道に堕つるなるべし」と厳しく仰せられているのであります。
 そもそも、自分だけの幸せを求めて利他に欠けた、つまり折伏行に欠けた利己的な信心は、仏様が最も嫌った姿勢であります。爾前経において、二乗が(よう)不成仏、すなわち永遠に成仏できないと嫌われたことも、ここに起因しているのであります。
 されば、私どもは一人ひとりが自行化他の信心に徹し、自らも(ごう)(じょう)なる信心に励むとともに、邪義邪宗の害毒によって苦悩に(あえ)いでいる多くの人々に対して、救いの手を差し伸べ、折伏を行じていくことが、今、最も大事なのであります。
           平成28年10月度広布唱題会の砌
   
  十一月 私達は強盛に折伏を行じていけば、様々な難が競い起こることは必定であります。しかし、それは大聖人様の仏法が正しいからであり、間違った教えでは、魔も驚きませんし、騒ぎもしません。
 私共が正しい信心をしているからこそ、様々な難が蠢動し、難が襲ってくるのであります。
 (中略)私どもは「魔競わずば正法と知るべからず」との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる難が競い起きようが、それを奇貨とし、決然として障魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を遂げることが出来るのであります。
                  大日蓮 平成28年10月号第848号
  
   十月 
 大聖人様は『十法界妙因果抄』に、「慳貪無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能く能く恐るべきか」
 と仰せられていますが、謗法の人に親近して、いつの間にか影響を受けて謗法に与同してしまうことが間々ありますが、それを避けるためには、とにもかくにも法華経を強いて聞かせることが肝要であります。なぜなら、信ずる人は仏に成り、謗ずる者も毒鼓の縁となって必ず成仏するからであります。
 また、己自身も与同罪受けることなく、成仏得道の道を歩むことができるのであります。
 もちろん、ここで「法華経」と仰せられているのは、法華経の肝心たる本門寿量品文底秘沈の南無妙法蓮華経のことであります。
         平成28年8月度広布唱題会の砌 
   
 九月  
 大聖人様は『最蓮房御返事』に、
「信心に退転無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行洗馬、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願も成就すべき成り」(中略)と、懈怠や詐りのない純真なる信心をもって、一切を大御本尊様 へ任せて、御金言のままに自行化他の信心に励むところ、後生は申すまでもなく、今生においても「息災延命」すなわち、災いをとどめ寿命を延ばし、災難や障害のない、幸福にして揺るぎない最高の境界、生活を送ることができ、広宣流布の大願も必ずかなうことが出来ると仰せられているのであります。全文はこちら
 平成28年唱題行(7月1日)の砌 於総本山
    

 八月
『世の中が混迷する原因は、その思想の乱れから起こるのであります。しかし、その思想の乱れは、なぜ起きるかと言えば、結局、間違った宗教によって起きるのであります。
 されば今、我々は、創価学会をはじめ間違った信仰によって不幸に喘ぐ多くの人々に対し、一日も早く、一切衆生救済の秘法たる日蓮大聖人様の正しい仏法を勧め、折伏していかなければならないのであります。
 『女説修行抄』には、「されば末法今の時法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(御書673)と仰せであります。

 平成28年6月度 広布唱題会の砌 於 総本山客殿

  
  七月度
 『立正安国論』の聖意に照らすならば、正報たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依せば、その不可思議広大無辺なる妙法の力用によって、我ら衆生一人ひとりの生命が浄化されます。それが個から全体へ、衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて依報たる国土世間をも変革し、仏国土と化していくのであります。(中略)大聖人様の御聖意を体し、真の世界平和と仏国土実現を目指して、一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。
   
  六月度
「叶い叶わぬは御信心により候べし。全く日蓮のとがにあらず」(御書1519)
という御文があるのです。ここはしっかりと覚えなくてはなりません。朝夕の勤行もしない。お寺にも行かない、折伏もしない。にもかかわらず、たまたま十年に一回くらい御本尊様にお願いしてみようか、といったところで、それはだめなのです。やはり信心がなければならないのです。御本尊様の功徳は、信心の二時をとおして初めて体得することが出来るのであります。ですから、有名な御文として、「仏法は海の如し、唯(ただ)信のみ能(よ)く入る」(御書1388)という御言葉がありますように、仏法というのは広大無辺なる慈悲の上に立っているわけであります。(中略)
 仏法という海には、信心という入り口しかないのです。この信心がない状態でも、祈れば何でもかなうのいうと、けっしてそうではないのです。そこに、朝夕の勤行をはじめ普段の信心が大事だという所以(ゆえん)があるのです。
   
 五月度
 『聖愚問答抄』には、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書403)
と仰せのように、かかる時にこそ、私どもは大聖人様の御金言のままに、身口意の三業にわたってしっかりと題目を唱え、その功徳と歓喜をもって、一切衆生救済の大願に立ち、いかなる障魔が競い起きようとも一歩も退かず、決然として破邪顕正の折伏を行じていくことが肝要であります。
 自らの幸せも、他の人々の幸せも、勇気と確信を持って力強く折伏を行じていくなかにこそ実現することを、けっして忘れてはならないのであります。
   
 四月度
 大聖人様は『弁殿御消息』に、
なづき(頭脳)くだ()きていの()るに、いまゝでしるし()のなきは、この中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ」(同 九九八頁)
と仰せになっています。
 「なづき」を砕くほどに、いくら祈りを込めて、祈りに祈っても願いがかなわないのは、そのなかに「心のひるがへる人」すなわち、異体異心の者がいるからだと仰せになっているのであります。
 まさに、我々の広布の戦いにとって、異体同心の団結がいかに大事であるかを、先程の『異体同心事』ならびに『生死一大事血脈抄』の御文をよくよく拝読し、まず講中の中心者である講頭、副講頭の方々がこのことをしっかりと認識して、異体同心の固い絆で結ばれた強い講中構築を目指していただきたいと思います。

   
 三月度
 五濁にまみれた末法の本未有善の衆生を成仏に導き、救済する方途はただ一つ、末法の御本仏大聖人がお唱えあそばされた一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を、一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていく以外にはないのであります。
 すなわち、末法本未有善の衆生は、妙法の最高の仏縁に触れてこそ成仏得道がかなえられえるのであって、今こそ、順縁・逆縁を問わず、私たちは妙法を下種し、折伏することが大事なのであります。
 広布唱題会の砌大日蓮・平成二五年一二月号
   
 二月度
 講中が一決するというのは、みんなが広宣流布の一点
に心を合わせていくことです。(中略)大聖人様は「桜梅桃李」(御書1797頁)ということをお示しになっているように、桜は桜、梅は梅と、それぞれが長所をしっかりと伸ばし、広宣流布という一点に力を合わせていくところに真の団結が生まれてくるのです。
 これが一番大事なことであり、これはしっかりとお題目を唱えていると、そういう心になるのです。お題目の功徳というのは、それほど広大無辺なのです。 ・・全文はこちら
  大百法・平成27年10月1日号
 
 平成二十八年一月
 本年は「折伏躍進の年」であります。
「躍進」とは辞書によれば、「踊りあがってすすむこと。勢いよく突進すること。目ざましい勢いで進出すること」等とあります。
 即ち、本年「折伏の年」は、全講中が僧俗一致・異体同心の団結のもと、身軽法重・死身弘法の御聖訓を奉戴(ほうたい)し、地涌の菩薩の眷属としての自覚と誇りを持って、一天四海本因妙広宣流布を目指し勇猛果敢に折伏実践を急躬行(きゅうこう)して誓願を達成すべき誠に大事な年であります。
 その折伏誓願達成の為の絶対要件は、僧俗一致・異体同心の団結であります。大日蓮二十八年一月号(新年の辞)
 
  〈平成二十七年十二月〉
 折伏というのはその人を救うことでありますが、その人が救われるためには、ただ入信をしただけでは、過去遠々劫からの罪障を消滅し、本当の幸せを掴むことはできません。その人が自行化他の信心に励むところに、成仏の道が開かれてくるのでありますから、「成仏は持つにあり」と御教示あそばされているのであります。(中略)
 具体的には、折伏をしたら信心の基本を正しく教えることが大事でありまして、朝夕の勤行を教え、戒壇の大御本尊様への登山参詣を教え、御講への参詣を教え、折伏することを教えていく、すなわち自行化他の信心を教えていく、これが育成であります。・・全文はこちら
 
平成27年9月度 広布唱題会の砌 於 総本山客殿
 
  十一月度
 手を抜かずに折伏を続けていくことが極めて大事であります。
 忙しい中にも時間を作り、弛まず折伏を続けていくところに自他の成仏、すなわち己れ自身の一生成仏もかない、苦悩にあえぐ人々を救うことがとができるのであります。・・全文はこちら

 御指南集⑩47頁 
 
 十月度
 
帰命ということには色々な解釈がありますけれども、一つには、我々の一生というのは、言うなれば、我々に与えられた時間であります。ですから、命を奉るということは、その尊い時間を、一生の間で、どれだけ仏様に奉ることができるのかということとも言えるでしょう。それを変に誤解して、腹を切ることだけが命を奉るというような考えを持つ人がいたとすれば、そのようなことではないのです。やはり、我々に与えられた尊い時間を、どれだけ仏様のために広宣流布のために、一切衆生救済のために使えるかということなのです。 平成成二十七年法華講夏期講習第二期
 
 九月度
 講中全体が不自惜身命の断固たる決意と異体同心の団結をもって折伏を行ていけば、いかかる障魔にも負けない、足腰の強い講中を構築することがでるのであります。そのためには、講中に在って、限られた人だけが折伏をうのではなく、講中全員が強力に折伏を行えるように育成をしていくことであります。・・全文はこちら 
大日蓮・平成二十四年二月号 
 
 八月度
 
四法とは、解かりやすく言えば、
一、常に仏の大慈大悲によって護られていることを認識するこ。
二、いつも功徳の元となる善い行いを心掛けるこ。
三、正定聚(しょうじょうじゅ)に入る、すなわち必ず仏に成るべく決定(けつじょう)されている者になること。
四、常に一切衆生を救う心を起こすこと。
 この四法を成就すれば、如来の滅後においても必ずごの経、すなわち妙法蓮華経を得る、つまり成仏することができると説かれているのであります。 
平成二十七年七月一日唱題行の砌 
 
  七月度
 夫(それ)信心と申すは別には」れなく候」(一四六七頁)とありますが、信心とは、ことさら力んで、身構(みがまえ)えて行うものではなくして、我々の普段の生活のなかで、ごく当たり前に行われるものでなければならない、という意味であります。例えば、朝夕(ちょうせき)の勤行にいたしましても、あるいは折伏にいたしましても、信心そのものが日常のなかで、至極当然のこととして行なわれなければならない、ということであります。・・全文はこちら
 
平成27年夏期講習会第一期
 
  六月度
 今、不幸な方々がたくさんんいる中で、法華講は何をすべきか。戒壇の御本尊様を信じなくなってしまった、創価学会の哀れな姿を見てくだい。この学会員を救っていけるのは、我々だけなのであります。我々の責任において、すべてを救っていかなければばなりません。
 私は、師匠であった妙観院日慈上人から「信心とは折伏なり」と教わりました。
 まさしく、私もそのように思います。我々、日蓮正宗は折伏の集団であります。つまり、世の中を良くし、人々を幸せにしていく集団なのです。・・全文はこちら
 法華講講頭会の御指南
 
 五月度
 今、不幸な方々がたくさんいる中で、法華講は何をすべきか。戒壇の大御本尊様を信じなくなってしまった、創価学会の哀れな姿を見てください。
 この学会員を救っていけるのは、我々だけなのであります。我々の責任において、すべて救っていかなければなりません。
 私は、師匠であった妙観院日慈上人から「信心とは折伏なり」と教わりました。
まさしく私もそのように思います。我々、日蓮正宗は折伏の集団であります。つまり、世の中を良くし、人々を幸せにしていく集団なのです。 ・・全文はこちら
 
法華講講頭会の御指南
 
 五月度
 来るべき平成三十三年の戦いは、今の様々な状況から見ると、けっして楽いではなく、厳しい戦いになると思います。けれども、邪義邪宗を破折して正法を弘めていくという厳しい戦いだからこそ功徳があるのです。その渦中にあえて臨んでいく決意と行動を起こさなければ、我々は本当の幸せを掴むことはできないのであります。 
法華講講頭会の御指南 
 
 四月度
 折伏と育成を比べて、折伏といいますと積極的・攻撃的であり、育成というと消極的・保守的であって、守りという捉之方をする人かおりますが、実際はそうでは無いのです。両方とも化他行で一体ですから、これをしっかりと行わないと、世代交代がうまくいかないうことがあるのです。
 だから、支部のなかには活動する人がいるのだけれども、その人たちがだんだん年をとってくると、跡継ぎがいないからガタッと折伏能力が落ちてしまうということが実際にあるのです。これではだめなのです。
 (略)育成をおろそかにすると、講中は衰退してしまって、昔の面影だけが残ったような形になってしまうのです。 ・・全文はこちら
 
講頭お目通りの砌 平成24年1月
 三月度
  
自分だけのために、いくらお題目を唱えても、だめですよ。「末法に入って今日蓮が唱ふ所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(五九四頁)ですから、やはり折伏をしなければ本物ではありません。
 だから、時々「私は一生懸命、信心をしているのだけれども、なかなか功徳がない」と言う人がいますけれども、では、どういう信心をしているのか。それが自分のためだけの信心であるならば、それは二乗根性に等しい信心ですから、そこには本当の功徳はありません。
 広宣流布というのは化他行ですから、広宣流布を忘れた信心であるならば、いくら行っても意味はありません。
 そこに我々が毎日毎日、折伏を行じていく尊い理由があるのであります。法華講夏期講習会第一期(平成二十六年五月十八日
 
  二月度
 折伏した人を育てる、育成するということは大事です。そのことをしっかりと行うことによって、本当に力のある講中に必ずなっていきます。
 しかし、育成をおろそかにすると、講中がだめになってしまうのです。折伏はしたけれども、勤行も教えない、御講に来ることも教えない、御登山することも教えなければ、どうなってしまうでしょう。それまでの下種折伏が、全く無になってしまいます。
 せっかく縁あって救われた人が、また遠ざかってしまいますよ。
 もしも、そうなったならばは折伏した人の罪です。
 ですから、我々は育成ということしっかりと心掛けていかなければめなのです。自行化他にわたる題目を唱えていくなかでは、一人ひとりがそのことを、しっかり見直してだきたいと思います。
 ・・全文はこちら
平成二十四年度法華講夏期講習会 第三期
 
 平成二十七年一月度
 我らは血脈正統の本宗に身を置く我等は、身の福徳を心から深謝すると共に、猶一層の精進を以って、創価学会の邪義を破折し、邪義謗法の害毒によって苦しんでいる人々に対して、破邪顕正の折伏を実践すると共に、一天四海本因妙広宣流布を目指し、近くは、第二祖日興上人の御生誕七百七十年を晴れて迎えられますよう心から念じ、新年の挨拶といたします。
 平成二十七年一月一日 新年之辞  
 
 十二月度
 広宣流布は我々の努力なしでは達成することはできません。
 そこに今、我々が大聖人様の弟子檀那として、一切衆生救済の慈悲行である折伏をなすべき大事な使命があり、責務が存していることを知らなければなりません。そして、その使命と責務を果たしていくところに、我ら自身もまた広大なる御仏智を(こうむ)り、計り知れない大きな功徳を享受することができるのであります。 平成二十六年十一月二日 広布唱題会の砌
 
 十月度
 
 妙法の力は広大無辺にして、いかに罪障深き者でも必ず救うことができますが、ただし、これも信心の厚薄によることを忘れてばかりません。
 故に『目女御前御返事』には、
 「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり」(同1388)
と仰せられているのであります。(中略)
 悪逆非道の提婆達多であろうが、蛇身の竜女であろうが、一切衆生ことごとくを救済し、成仏の直道に導けるのは大聖人様の仏法以外にはないことを、一人ひとりが銘記し、講中の総力を結集し、異体同心して折伏を行じ、もって誓願は必ず達成されますよう心からお祈りする次第であります。 
平成二十六年八月度 広布唱題会の砌
  九月度
 
まさに今、私どもは宗門挙げて、法華講員五〇パーセント増の誓願達ヘ向けて、昼夜を分かたず懸命に折伏を行じておりますが、この誓願達成のために絶対不可欠な要件とは、講中が志を同じくして一体となり、一致団結・異体同心したこ釈戦いを展問していくことであります。 
 ただし、この団結が言葉だけのものであったり、単なる掛け声であったり、表向きだけのものであったり、他人頼みだけのものてあったりしては、真の団結とはならず、誓願は違式できません。
 つまり異体同心の団結とは、言葉ではなく、実践を通して初めて生まれるものであって、口でいくら 「団結、団結」と叫んでも、実行が伴わなければ大聖人様の御意にかなうものではありません。
 講中が一結して、誓傾達の一点にすべての行動の焦点を合わせ、共に折伏に歩き、共に広布を語り、共に励まし合い、共に障魔を打ち砕き、共に困難を乗り越え、お互いが信心を根本とした実践活動を通して、初めて真の団結が生まれるのであります。 
平成二十六年八月度 広布唱題会の砌 
 
  八月度
 
妙法信受の功徳は、爾前権経で説くような歴劫修行や改転の成仏、すなわち女人が女身を改めて男子となって成仏することや、悪人が善人となって成仏するのではなく、女人であれ、悪人であれ、たとえいかなる人であろうとも、その身そのままに成仏することができると説かれているのであります。
 ただし、そこには大事な条件がありまして、本門戒壇の大御本尊を()(みょう)()()の本尊と仰ぎ奉り、無二に信じ奉る()()(わっ)(しん)の信心こそ、肝要であることを忘れてはなりません。
 よって法華経譬喩品には、智慧第一と言われた舎利弗すら信心によって得道したことを()げて、「以信得入」すなわち、ただ信のみが仏道修行の(よう)(てい)であると説かれ、一切衆生はことごとく、信心をもって成仏することができるのであると仰せられているのであります。
  と同時に、その信心は単に自己のみの信心ではなく、自行化他にわたる信心こそ肝要であります。
 どうぞ皆様には、今日を機にさらに強盛なる信心に住して、全支部が必ず誓願を達成されますようお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。・・全文はこちら
平成二十六年七月度 広布唱題会の砌
 七月度 
 
妙法信受の功徳は、爾前権経で説くような歴劫修行や改転の成仏、すなわち女人が女身を改めて男子となって成仏することや、悪人が善人となって成仏するのではなく、女人であれ、悪人であれ、たとえいかなる人であろうとも、その身そのままに成仏することができると説かれているのであります。
 ただし、そこには大事な条件がありまして、本門戒壇の大御本尊を()(みょう)()()の本尊と仰ぎ奉り、無二に信じ奉る()()(わっ)(しん)の信心こそ、肝要であることを忘れてはなりません。
 よって法華経譬喩品には、智慧第一と言われた舎利弗すら信心によって得道したことを()げて、「以信得入」すなわち、ただ信のみが仏道修行の(よう)(てい)であると説かれ、一切衆生はことごとく、信心をもって成仏することができるのであると仰せられているのであります。
  と同時に、その信心は単に自己のみの信心ではなく、自行化他にわたる信心こそ肝要であります。
 どうぞ皆様には、今日を機にさらに強盛なる信心に住して、全支部が必ず誓願を達成されますようお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。  大日蓮 平成二六年六月号
 
  六月度
 自行化他と言われるように、唱題と折伏は一体であります。つまり、自行と化他は一体でなければなりません。同じように、唱題と折伏は一体であります。
 したがって、今、申し上げました通りに、まず唱題をしっかりする。しかし、唱題が唱題だけに終わるのでけなくして、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出ることが、極めて大切であります。このことを、皆様方にはよくよく、しっかりと銘記していただきたいと思います。
 したがって、もし唱題がしっかりと行われていませんと、そこに必ず魔が入るのです。
 唱題をしないと、そういうすきまを自分自身や講中に作ってしまうのです。
 法華講講頭会の瑚 大目蓮・平成二五年五月号
 
  五月度
 『法華初心成仏抄』には、
 
「とてもかくても法華経を()ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は(どっ)()の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 一三一六㌻)
と仰せであります。
 まさしく一切衆生救済の最善の慈悲行こそ折伏であり、その折伏は、妙法の話を聞いて信じた人はもちろんのこと、「毒鼓の縁」が示すように、たとえ聞く心がない人でも、やがて妙法を耳にした縁によって、必ず逆縁成仏することができるのであります。
 されば、今、我々はこれらの御金言を一人ひとりが心肝に染め、地涌の菩薩の眷属としての振る舞いと、異体同心の団結をもって、来たるべき明年の日興上人御生誕七百七十年、法華講員五〇パーセント増の誓願達成へ向けて、破邪顕正の大折伏戦を実践していくことこそ、今、最も肝要であり、急務であります。
 どうぞ皆様には、誓願達成を期して、講中一結して唱題に励み、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出て、すべての支部が必ず折伏誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。平成二十六年 四月度 広布唱題会の砌
 
   四月度
 誓願達成の成否を決定するこれからの一年間の戦いはまことに大事であり、全国の各支部はこの戦いに完全勝利すべく、僧俗一致の体勢を調え、折伏に継ぐ折伏をもって誓願達成の戦いに臨んでいただきたいと思います。
 そもそも、折伏は一切衆生救済の最善の慈悲行であります。
 この折伏を断固たる決意と勇気をもって実践するためには、常日ごろからしっかりと唱題を重ね、その功徳をもって折伏に当たることが大事であります。
 されば『持妙法華問答抄』には、
 
「願はくは『(げん)()(あん)(のん)()(しょう)(ぜん)(しょ)』の妙法を持つのみこそ、(ただ)今生の(みょう)(もん)後世の(ろう)(いん)なるべけれ。(すべから)く心一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも(すす)めんのみこそ、今生人界の(おも)(いで)なるべき」(御書 三〇〇㌻)と仰せであります。
 我ら末法の衆生は難を恐れていたのでは、過去遠々劫からのたび重なる罪障も、難も消滅することはできません。
  たとえ、いかなる困難や障害が(じゃっ)()しようが、無疑(わっ)(しん)の信に住し、微動だにしない強盛な信心があれば、転迷開悟の大功徳を必ず享受することができるのであります。
 ただし、「(かな)ひ叶はぬは御信心により候ベし」(同 一五一九㌻)と仰せの通り、我らの願いは、我々自身の信心いかんによって決まることを、よくよく銘記すべきであります。平成二十六年 三月度 広布唱題会の砌
 
   三月度
 世の中の不幸と苦悩と混乱の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあり、この謗法をそのままにして破折もせず、放置しておくことは、世間をはじめ我が身にとっても、知らず知らずのうちに与同罪を受けて、謗法の害毒に侵されることとなるため、厳しく謗法を責めよと仰せられているのであります。
(中略)
 たしかに、我々一人ひとりの力は小さくとも、広布へ向かって心を合わせ、一致団結していけば、やがて大海ともなり、須弥山ともなり、計り知れない大きな力となり、広布へ向かって大きく前進することができるのであります。(中略)
 まさしく、今、求められているのは、講中の一人ひとりが、誓願達成へ向けて共通の目的と強い意識を持ち、異体同心して破邪顕正の折伏を断固として行じていくことであります。平成二十六年 二月度 広布唱題会の砌
 
  二月度
 本年度は、いかなる困難や障害が起き、行く手を
(はば)もうとも、全支部ともに一致団結し、講中の総力を結集して縦横無尽に大折伏戦を展開し、本年度を必ず勝利して、もって平成二十七年の法華講員五十パーセント増の誓願を必ず達成されますよう、心から願うものであります。
 大聖人様は『開目抄』に、
 「今、日蓮、
(ごう)(じょう)に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし。鉄は火に値()はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。(ねむ)れる師子に手をつくれば大いに吼()ゆ」(御書 五七三㌻)
と仰せであります。
 我々が正法広布に身を捧げ、邪義邪宗の謗法を退治し、折伏を行じていけば、必ず魔が(しゅん)(どう)し、大難が超きることは(ひつ)(じょう)であります。しかし、その大難こそ、我々が過去に積んできた様々な罪障を呼び起こし、消滅する絶好の機会の到来を告げているのであります。大百法 平成二十六年一月度 広布唱題会の砌
  
 平成二十六年一月度 
 中国の故事に、
 
「勇闘すれば則ち生き、勇ならざれば則ち死せん」
と云う言葉があります。
 力の限り戦えば生き残ることが出来ますが、そうでなければ生き残れないと云うことであります。
 応(まさ)に折伏もその通り、崇高なる一天広布の願業達成を目指して身軽法重・死身弘法の決意を以って随力弘通するところ、必ず諸天善神も守らせ給い、勝利は確約されるのであります。
 されば、大聖人は『種々御振舞御書』に、
 「法華経の肝心、諸仏の
(げん)(もく)たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提ろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし」(御書 一○五七㌻)
と仰せであります。
 第二祖日興上人御生誕七百七十年まで残り一年余、本年はすべての支部が「折伏貫徹」を旨に全力を出し切り、来たるべき平成二十七年の誓願達成へ向けて愈々御精進されますよう心から念じ、新年の辞とします。大百法 平成二十六年一月一日度度 第八七六号
平成二十五年十二月度
 大聖人様は『聖愚問答抄』に、
 「今の世は
(じょく)()なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。()の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。(ただ)折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書 四〇三㌻)
と仰せであります。
 五濁にまみれた末法の本未有善の衆生を成仏に導き、救済する方途はただ一つ、末法の御本仏大聖人がお唱えあそばされた一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を、一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていく以外にはないのであります。平成二十五年 十一月度広布唱題会の砌
 
  十一月度 
 法華経に、「若有開法者 無一不成仏」(法華経一一八)という経文部あります。これは方便品のなかにある経文でありますけれども、この経文について大聖人様は「百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり」(御言一五七四)と仰せになっております。
 このことをもってして、私達は大きな功徳を頂戴しているのでありますけれども、併せて大切なことは、この御本尊様の大きな功徳を己れだけのものにするのではなくして、自行化他の信心、つまり自分ち、そして他の人をも救っていく、このことが末法においては大切であります。
丁義山真興寺落慶人仏式の砌、大目蓮・平成二四年六月号
 
  十月度 
 今の世の中を見ますると、いつも苦しんでいながら、いつの間にか苦しみに慣れてしまって、苦しみを苦しみとも思わず、惰性に流された生活から抜け出そうともしない。そのくせ、かりそめの苦しみに耽り、はかないつかの間の喜びに満足して、もっと大きな喜び、本当の喜びがあるにもかかわらず、それを求めようともしない。
 その様は、あたかも「三車火宅の替え」にあるように、燃えさかる家のなかに在って、危険が迫っているにもかかわらず、遊びほうけている子供達の姿と同じであります。
 私どもは、こうした人々に対して、苦しみの根源は何か、真の幸せを築くためには何をなすべきかを心を込めて説き、一人でも多くの人に大聖人様の仏法を下種結縁して、折伏を行じていかなくてはなりません。
平成二十五年九月度広布唱題会の砌 
 
  九月度 
 御本尊様のお力は、我々の信力・行力がなければ顕れてきません。御本尊様に当然、仏力・法力が備わっていらっしゃいます。しかし、その仏力・法力は我々の行力・信力と相俟(あいま)って、つまり四力が成就して初めて、功徳となって顕れるのです。だから、信力・行力を奮い起こして自行化他のの信心に励む、つまり、しっかりとお題目を唱えて、自分自身の幸せを願い、そして多くの人達の幸せを願っていくという信心姿勢が、今、最も大切ではないかと思います。
法華講夏期講う習会第二期平成二十五年八月号 大日蓮
 
  八月度 
 折伏は'第一に折伏された人に功徳があります。折伏された人は、大聖人様の仏法に帰依しますから'これは非常に大きな喜びです。
 そして'それと同時に'折伏した人にも功徳があるのです。つまり'過去遠々劫からの様々な罪障を'折伏によって消滅することができるのです。
 ですから'折伏は自分も'それから折伏した相手も'共に幸せになれる修行なのです。したがって'折伏を忘れてしまいますと'日蓮正宗の信心は成立しないのです。
 
大日蓮 平成二十四年十一月号
 
  七月度 
 寺院の興隆発展は、その国、その地域における正法弘通が進み、一歩一歩、力強く、かつ確実に広宣流布に向かって前進している証であります。
広宣流布への道のりは、大聖人様の御化導がそうであったように、二人、三人、百人と次第に伝え、下種折伏していくことが肝要であります。特に、末法本未有善の衆生は、自ら法を求めてくる方はほとんどありません。こちらから積極的に下種し、折伏をしていくことが大事なのであります。
 折伏は、たとえ相手が反対したとしても、妙法を下種しとことによって縁を結び、その縁によってやがて入信し、即身成仏の本懐を果たすことができるのであります。
(妙照院移転落慶法要・平成二十四年九月号)
 
  六月度
 我々は御本仏大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊を帰命依止の御本尊と拝し奉り、至心に妙法蓮華経と唱え奉るとともに、邪義邪宗の害毒によって苦しむ人達に対し、一切衆生救済の秘法たる妙法蓮華経を下種し、折伏を行じていくことこそ、今日における我らの最も大事な使命であることを自覚し、講中挙げてこれを実践していただきたいと思います。
平成二五年三月 法華講連合会 第五十回総会の砌
 
   五月度 
 
一切衆生救済の最善の慈悲行であります。
 大聖人は『諌暁八幡抄』に、
 「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(同1539)
と仰せられ、久遠元初の御本仏が末法に御出現あそばされ、宗旨を御建立あそばされた目的は、ただひとえに一切衆生をしてことごとく成仏の直道に導くためであることを明かされております。
 されば、私どもはこの御本仏大聖人の広大無辺なる大慈大悲のお心を深く拝し、一人ひとりが不動の信念を持って、一天四海本因妙広宣流布へ向かって、一意専心、折伏を行じ、もって御本仏大聖人の大慈大悲にお応えしていかなければならないと思います。
平成二五年四月度 広布唱題会の砌
 
   四月度
 我々の信心において何が大事かと申しますと、大御本尊様に対する絶対的な信、すなわち「無疑曰信」の信であります。
事実、折伏が盛んな支部は、講中一同が誓願達成のための唱題行を行い、講中一同が心を一つにして誓願達成へ向けて戦っております。
結局、折伏はもちろん、何事を成すのも唱題行を根本にして、弛まぬ努力をしていくことでありまして、この不断の信心を基本として講中の体勢を整え、折伏、御講参加、登山等に取り組んでいくことが、誓願達成の秘訣と言えるのであります。
平成二五年三月度 広布唱題会の砌 
 
   三月度
 今、日本乃至世界を見ると、人心は極度に撹乱し、世界の至る所で争いごとが絶えず、まさしく末法濁悪の世相そのままの状況を呈しております。こうした惨状を救い、真の世界平和と全人類の幸せを実現するためには、唯一、大聖人の仏法をもってする以外にはないことを、私どもは銘記すべきであります。
 特に、本年は「団結前進の年」であります。講中が文字通り「水魚の思ひを成して異体同心」して立ち上がり、一人も漏れず、広布の戦いに馳せ参じていくところに、本年「団結前進の年」と銘打った意義が存しているのであります。
平成二五年二月度広布唱題会の砌 
 
   二月度 
 
昨年度の各支部の折伏達成状況を見ると、折伏が盛んなところは唱題も盛んで、諸般の事情で直接、折伏に参加できない人でも、寺院や拠点に集まって唱題をして折伏達成を御祈念し、講中全員が一致団結・異体同心して誓願達成のため動いております。
昨今の混迷を極める五濁乱漫たる世相を見るとき、今こそ、我々は日夜朝暮に唱題に励み、もって『立正安国論』の御聖意に照らして、一人ひとりが破邪顕正の折伏を行じていかなければならない大事な時を迎えていることを銘記すべきであります。平成25年1月度 広布唱題会の砌
 
   平成二十五年一月度
 講中全体が誓願達成の強い意識を持ち、たとえ折伏に参加する形は様々であっても、異体同心の団結と誓願達成の同一目的を持って、講中が一致団結して全員参加の折伏を実践していくことが大事であります。
 つまり、異体同心の団結を以て、全体行動を起こしていけば、如何なる障魔にも負けない強固な団結の輪が出来、堅牢にして活動的な講中を構築して誓願を達成することが出来るのであります。
 而して、この異体同心の団結と、折伏に立ち上がる気概と勇気を生む鍵こそ唱題行であります。新年の辞(大白法 第852号)
 
 
   平成二十四十二月度  
 折伏した人を育てる、育成するということは大事です。そのことをしっかりと行うことによって、本当に力のある講中に必ずなっていきます。しかし、育成をおろそかにすると、講中がだめになってしまうのです。
 折伏はしたけれども、勤行も教えない、御講に来ることも教えない、御登山することも教えなければ、どうなってしまうのでしょう。それまでの下種折伏が全く無になってしまいます。せっかく縁あって救われた人が、また遠ざかってしまいますよ。もしも、そうなったならば、それは折伏をした人の罪です。
 平成二十四年度法華講夏期講習会第三期
 
   十一月度
 折伏は、我々の言っていることを、相手が信じてくれなければ何もなりません。相手の信頼に足る言葉、行い、意がなければ、折伏はなかなか成就しないのであります。
したがって、もし、折伏が思うようにできなければ、相手の強情さを嘆くのではなくして、自分自身の信心の弱さ、題目の足りなさ、信心の現証体験の足りなさを反省し、真剣に唱題に励み、御本尊へ祈り、不軽菩薩がそうであったように、飽くなく折伏を続けていくことが肝要であります。 
 平成二十四年七月法華講連合会結成五十周年記念大会の砌
 
  十月度
 昨年入信した間もない方でも、この御本尊様以外には絶対に幸せになれる道はないと固く確信し、一人でも多くの人を救っていきたいという、そういう大きな慈悲の心があれば、たとえ入信間もない方でも折伏はできることを実証しているのであります。
 つまり折伏は、本気になってやろうと思えば、だれでもできるということであります。難しいことを言う必要はありません。「この御本尊様以外には、幸せになれない」と確信し、その確信を真心込めて相手に伝えていくことが、最も肝要なのであります。
 したがって、折伏が進んでいる支部に共通して言えることは、こうした御本尊様に対する絶対的な確信を持っていること、そして時を惜しまず行動する、そのパワーであります。平成二十四年八月度広布唱題会の砌 
 
   九月度
 大聖人様の仏法は、一人ひとりの幸せを、そしてまた一人ひとりの幸せから多くの人の幸せに、つまり点から線、線から面へ広がっていく、いわゆる広宣流布を目指していく仏法であります。
ですから、まず折伏をすると、折伏された人が幸せになります。同時に、折伏した人も幸せになれるのです。過去遠々劫の様々な罪障、これが折伏によってみんな消えていくのです。
 平成二十四年度法華講講頭会の砌 
 
   八月度
 折伏によって人を救うということは、仏様のなされることを今、我々が仰せつかって行っているのでありますから、言うなれば仏様のお使いをしているということなのです。
 このことにはすばらしい功徳がありまして、折伏によって多くの人達を救うことは即、自分自身の過去遠々劫(おんのんごう)の罪障を消滅していくことになるのであります。
  大日蓮 平成二十四年五月号
 
  七月度 
 本年度は大中小、いかなる支部も必ず誓願を達成しなければいけません。「私のところはどうも…」などというようなことを頭のなかで考えたら負けなのです。そのようなことは一切考えないで、遮二無二、折伏に邁進していく。そうすると道が開かれてくるのです。開かれないのであれば、それは題目を唱えて折伏を行じていないからなのです。折伏せずに頭で考えるばかりで、「どうしよう、こうしよう、ああしよう」と言っているだけだったら、それは理の仏法なのです。理の仏法をいくら行じたとしても功徳はありません。行き詰まったら題目を唱えて、そして折伏に打って出る。これを飽くなく繰り返していってごらんなさい。その支部は必ず道が開かれていきます。
 夏期講習会第四期 大日蓮・平成二十二年十一月 
 
   六月度
 末法の衆生は本未有善なるが故に、本因下種の妙法をもって折伏する以外に救うことはできないのでありますから、不軽菩薩の振る舞いがそうであったように、いかに相手に罵られ、毀られ、怨まれ、嫉まれ、打たれようとも、また相手が聞こうと聞くまいと、相手の機根のいかんにかかわらず、強いて妙法を説き、ときには毒鼓の縁を結ばせて()(ごう)(どく)()して、妙法を受持し、仏道を成じさせることが肝要なのであります。
 (中略)
 まさしく『立正安国論』の原理によれば、大御本尊に対する絶対の確信と、我らの破邪顕正の折伏の実践によって、我が身を変え、世の中を変え、必ず仏国土を構築することができるのであります。 平成二十四年五月度 広布唱題会の砌
 
  五月度  
 折伏の際、難しいことを言う必要はありません。「このお題目を唱えていけば、必ず幸せになれます。悩みは解消します」と、まず最初に結論を教えてあげればいいのです。
 そうすれば、そこから色々な話が始まっていくのであります。回りくどいことを言っても、末法の衆生は聞きませんから、むしろ直截的(ちょくせつ)に、きちんと申し上げたほうがよいのです。
 色々な人間関係があって躊躇(ちゅうちょ)してしまうこともあろうかと思いますが、やはりその心を押しのけて、きちんと話をしてあげることが大事です。それが折伏なのです。摂受の考えになってしまってはいけません。やはり、まず大聖人様の仏法は最高なのだという確信を持つことが大切だと思います。
 「祈りとして叶(かな)わざる無し」(御書文段一八九㌻等)
というお言葉がありますが、祈りがかなうか、かなわないか、つまり折伏ができるか、できないかは、結局は私達の信力と行力、すなわち信心によるということになるわけです。
 だから、もしうまくいかないのであれば、それには原因があるのです。唱題が足りないか、あるいは実践行動が不足しているか、あるいは魔に負けているか、あるいは勇気がなく臆病であるか、あるいは小さな満足に浸ったまま、惰性に流された信心生活をしていないか、こういったことをしっかりと自分自身でチェックして直していけば、折伏は必ずできるのであります。
平成二三年一一月度 夏期講習会第五期の砌 
 
  四月度  
 本年も既に三月に入りましたが、ちょうど今から一年前、昨年三月十一日、東日本大震災が発生し、予想をはるかに超えた大津波によって東北地方は壊滅的打撃を受け、多くの方々が家を失い、家族を失い、悲惨な目に遭われましたが、これらの方々に心からお見舞い申し上げるとともに、今、振り返ってこうした惨状を見るとき、私どもは改めて『立正安国論』の御正意を拝し、我々が何をなすべきかを考えていかなければなりません。
 大聖人様は『立安国論』に、「(つらつら)微管を傾け(いささか)経文を(ひら)きたるに、世(みな)正に背き人(ことごと)く悪に帰す。故に善神(くに)を捨てゝ(あい)去り、聖人(ところ)を辞して(かえ)らず。(ここ)を以て魔来たり()来たり、災起こり難起こる。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」(御書 二三四㌻)
と仰せであります。
 すなわち、天変()(よう)等の災難(こう)()の原因は、ひとえに「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ことにあり、正邪をわきまえない邪義邪宗の謗法こそ、災難の根源であります。
 されば、同じく『立正安国論』には、
 「()()づ国土を安んじて現当を祈らんと(ほっ)せば、速やかに(じょう)(りょ)(めぐ)らし(いそ)いで対治を加へよ」(同 二四八㌻)
と仰せられ、さらに、
 「早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ(すべから)く国中の謗法を()つべし」(同 二四七㌻)
と仰せられています。
 すなわち、天変地夭等の災難を防止するためには、根本的な原因を抜き取って、弊害を大本からなくすことが肝要であり、そのための具体的な実践方途こそ、破邪顕正の折伏なのであります。 平成二十四年三月度 広布唱題会の砌   
 
  三月度
 
広宣流布の戦いには、後退はもちろん、とどまることも、(ちゅう)(ちょ)も無用であります。ただ「実行前進」あるのみであります。
 そのためには、まず唱題が大事であります。何年も連続して折伏誓願を達成している支部は、皆、講中挙げて唱題を行い、その唱題の功徳と歓喜をもって一丸となって折伏を行じ、大きな成果を挙げております。
 唱題と折伏との関係は、まさしく()(そく)()()の関係にあります。
 どうぞ、皆様にはこれからも唱題に励み、折伏を行じ、必ず本年度の誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。 平成二十四年二月度 広布唱題会の砌    
 
  二月度 
 申すまでもなく、自行の題目とは唱題行であります。化他の題目とは、すなわち折伏行であります。唱題と折伏は一体のものであり、唱題こそが折伏のあらゆる活動の源泉となるのであります。
 折伏に当たって、何ものにも恐れない不動の信念と強い確信に立ち、あらゆる障魔を打ち払うためには、勤行・唱題をしっかりと行うことが肝要であります。
 折伏は、あふれんばかりの唱題の功徳と歓喜をもって打って出ることが、最も大事だからであります。
 大聖人は『祈祷抄』に、
「大地はさゝばはづるゝとも、()(くう)をつなぐ者はありとも、(しお)()()ぬ事はありとも、日は西より()づるとも、法華経の行者の祈りの()なはぬ事はあるべからず」(同 六三〇㌻)
と仰せであります。
 御本尊に祈り、広布に生きる使命を感じ、世のため、人のため、身軽法重・死身弘法の信念に燃え、強い確信をもって折伏を行ずる時は、必ず相手の心を動かすのであります。
 どうぞ、皆様には本年「実行前進の年」を悔いなく戦いきり、必ずや本年度の折伏誓願を全支部が達成されますよう心からお願いを申し上げ、本日の挨拶とさせていただきます。平成二十四年一月  広布唱題会の砌  
 
  平成二十四年一月度
 大御本尊に対する絶対的確信と強盛なる自行化他の信心、
就中(なかんずく)破邪顕正の折伏こそ邪義邪宗の謗法を打ち払い、あらゆる障魔を打ち砕く秘訣であります。
 言い換えれば、講中全体が誓願達成の共通の認識を高め、不自惜身命の断固たる決意と異体同心の団結を以て折伏を行じていけば、如何なる障魔にも負けない足腰の強い講中を構築できるのであります。そのためには、講中にあって限られた人だけが折伏を行うのではなく、講中全員が立ち上がり強力に折伏を行えるように育成していくことであります。具体的に云えば、折伏したら、その折伏された人が折伏出来るように育てることであります。
 所詮、折伏と育成は共に化他行であります。申すまでもなく自行とは勤行と唱題であり、化他行とは折伏と育成であります。従って、共に化他行である折伏と育成はどちらが欠けても片寄った信心となり、これでは強い講中は育たず、大事な目標も達成出来ません。
 要は、折伏したら、その人が折伏できるように育成することが強い講中構築の極意であります。
  平成二十四年一月 新年の辞  
 
平成二十三年 十二月度
 世間的に言っても、世のため人のために尽くすことは、自分自身がそこに生きがいと喜びを感じ、自らの成長が図られ、充実した人生を歩むことができると言われております。
 仏法においてはなおのこと、折伏によって一人でも多くの人々を幸せに導くことは、我ら地涌の菩薩の眷属として最も重要なことであり、これこそ最高の喜びであります。その折伏には、また自らも幸せになり他をも幸せとする、自利利他の大きな功徳を存しているのであります。
 そもそも、末法の衆生は本未有善であります。その本未有善の荒凡夫が成仏をするためには、爾前諸経に説かれるような(りゃっ)(こう) 修行や、末法の衆生には到底不可能な六波羅蜜等の修行を経なくとも、ただ寿量品文底秘沈の南無妙法蓮華経を受持し、自行化他の信心に励んでいくことによって、必ず成仏がかなえられるのであります。十一月度広布唱題会の砌 
 
  十一月  
  「冥冥(めいめい)の志なき者は、昭昭(しょうしょう)の明なく、昏昏(こんこん)の事なき者は、赫赫(かっかく)の功(こう)なし」という言葉があります。
 「冥冥の志」とは、人の知らないところで努力することであります。「昏昏の事」とは、心を打ち込んで集中することであります。つまり「目に見えぬ努力を積み重ねない者には、栄誉が訪れるはずがないし、目につかぬところで仕事の手を抜く者には、輝かしい成果があるはずもない」という意味であります。
 折伏も同様でありまして、手を抜かずに折伏を続けていくことが、極めて大事であります。忙しいなかにも時間を作り、弛まず折伏を続けていくところに自他の成仏、すなわち己れ自身の一生成仏もかない、苦悩にあえぐ人々を救うことができるのであります。十月度広布唱題会の砌  
 
十月 
 私どもは御本仏大聖人の御金言のままに、確信を持って、世のため人のため、真の仏国土実現へ向かって謗法を破折し、折伏を実践していくことが今、謗法の害毒によって迷走し続ける日本を、また世界を救うためにも最も必要とするところであり、かつまた我ら本宗僧俗に課せられた最も大事な使命であり責任であることを、一人ひとりがしっかりと銘記していただきたいのであります。
 本年は「実践行動の年」であります。座して広布を語るのではなく、立ち上がり、実践行動をもって広布に(てい)(しん)していくことが最も大事なのであります。
 どうぞ各講中は、僧俗一致・異体同心の団結と果敢なる実践行動をもって、平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、そしてそのためにも本年度の誓願を必ず達成されますよう心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。 八月度 広布唱題会の砌 
 
  九月
 僧侶である指導教師と心を一つにして戦っていくということを、しっかりと念頭に置いてやっていけば、必ず広宣流布は達成できる、また近い目標としての平成二十七年の誓願も、必ず達成できると思います。
 したがって、もし、なかなか達成することができないところがあったとすれば、異体同心の姿のなかのどこかに亀裂があるのです。そのことをよく考えていただきたい。
 そしてまた、異体同心というのは、どこに心を合わせるかということが大切なのです。とかく、自分の意見だけが正しくて、他のみんなが間違いだと思い込み、みんなを自分に従わせようとしてしまいがちです。みんながそんな考えを持てば、けんかになってしまうのは当然です。これではいけません。
 では、どうすればいいのか。それは、広宣流布の一点にすべての焦点を合わせていけばよいのです。私(わたくし)の心をなくして、そして自分の心を仏様に捧げ、広宣流布に捧げて戦っていけば、異体同心できるのです。
本年度夏期講習会第一期の砌  
 
 

 八月
 天下泰平・国土安穏は、我らが等しく願うところであります。
 仏法には依正不二の原理が説かれておりまして、正報たる我ら衆生と依報たる国土世間とは、全く無関係にあるわけではありません。『瑞相御書』には、

 
「人の(よろこ)び多々なれば、天に(きち)(ずい)をあらはし、地に(たい)(しゃく)(うごき)あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に(きょう)(よう)(しゅっ)(たい)す。(しん)()の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし」(同九二〇㌻)

と仰せであります。
 すなわち、(しょう)(ほう)たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、大乗の一善たる本門の本尊に帰依すれば、妙法蓮華経の計り知れない(りき)(ゆう)によって、我ら衆生一人ひとりの生命が浄化され、それが個から全体、衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて()(ほう)たる国土世間に及び、仏国土と化していくのであります。 平成二十三年七月度 広布唱題会の砌
 
七月
 今、宗門は僧俗一致して、来たるべき平成二十七年・三十三年の目標達成のために、総力を挙げて前進をしております。
 かかる時に当たり、私どもは深くこの御金言を拝し、大御本尊様への絶対の確信と広大無辺なる功徳を信じ、一人残らず折伏(ぎゃっ)()の戦いに()せ参じ、誓願達成のために挺身をしていかなければなりません。
 二十七年・三十三年の目標を達成するためには、まず眼前の目標たる本年度を必ず勝利することであります。
 そのためには、失敗を恐れず、まず動くことであります。信心とは実践であります。
 自分を取り巻く人のなかで未入信の人がいたら、直ちに行動を起こし、下種折伏することが必要であります。
 折伏に当たっては、御本尊様の偉大なる功徳を、魂を込めて話をすることであります。心から相手の幸せを願い、折伏することが大事なのであります。
 どうぞ皆様には、今日、お話を申し上げましたように、この大御本尊様を受持信行する者は、大御本尊様の広大無辺なる功徳と、あらゆる仏、菩薩、二乗、諸天等の守護が必ずあることを忘れずに、勇気を持って、いよいよ折伏に励んでいただきたいことをお伝えして、本日の話といたします。 平成二十三年六月度 広布唱題会の砌
 
 六月
 末法の修行は自行化他にわたる題目が肝要であります。
 したがって、唱題行にしても、唱題が唱題だけで終わらず、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出ろことが肝要なのであります。
 要は「実践行動の年」にふさわしく、一人ひとりが、理屈ではなく、折伏実践の行動を起こすことであります。
 「座して食らえば山も(むな)し」という言葉がありますが、たしかに、働かないでいれば、豊富な財産もやがてはなくなってしまいます。同じように、信心も折伏を行じなければ、今まで積んできた功徳もいつの間にか、なくなってしまいます。
 我々一人ひとりが一生成仏を果たし、仏国土を実現するためには、地涌の菩薩としての振る舞い、すなわち「(じょう)()菩提、()()衆生」の誓願のもと、唱題を重ね、折伏を行じていくことが最善の方途であることを知らなければなりません。
 特に、今回の東日本大震災の惨状を目の当たりにする時、その感を深くするものであります。平成二十三年五月度 広布唱題会の砌
 
 五月(全文掲載)
 本日は、四月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
 まず初めに、このたびの東日本大震災により被災された皆様、同じく災害に遭われた本宗信徒の皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。
 この大震災によって、多くの方が尊い命を亡くされましたことに、悲しみの念を深くするとともに、犠牲となられた方々の御冥福を衷心よりお祈り申し上げます。
 被災者の皆様が、このたびの痛みを一日も早く(いや)され、再び未来へ向かって力強く立ち上がり、強盛なる信心をもってこのたびの大難を克服せられますよう、心からお祈り申し上げるものであります。
 このたびの大震災を見て、かねてより大聖人様が『立正安国論』において警鐘を鳴らされていたことが空事(そらごと)ではなく、まさしく現実であることを厳しく知らされた思いであります。
 『立正安国論』には、(しょう)()元(一二五七)年八月二十三日の大地震をはじめ、近年より近日に至るまで(ひん)(ぱつ)する天変、()(よう)()(きん)疫癘(えきれい)等の惨状を見て、その原因は、世の中の人々が皆、正法に背き、悪法を信じていることにより、国土万民を守護すべきところの諸天善神が所を去り、悪鬼・魔神が便りを得て住みついているためであるとされております。そして、正法を信ぜず悪法を信ずることによって、三災七難等の災難が起きると、仁王経、大集経、薬師経等を挙げて、その理由を述べられ、これら不幸と混乱と苦悩を招いている原因はすべて謗法にあり、この謗法を対治して正善の妙法を立つる時、国中に並び起きるところの三災七難等の災難は消え()せ、積み重なる国家の危機も消滅して、安寧にして盤石なる仏国土が出現すると仰せられています。そしてさらに、こうした災難を防ぎ、仏国土を建設するためには、一刻も早く謗法の念慮を()ち、「実乗の一善に帰せよ」と(いさ)められているのであります。
 「実乗の一善に帰せよ」とは、万民一同が謗法の念慮を断ち、実乗の一善、すなわち三大秘法の大御本尊に帰依することであり、実乗の一善に帰することが、人々の幸せと国土を(やす)んずる絶対不可欠な要件であると仰せられているのであります。
 すなわち、仏法においては依正不二の原理が説かれ、主体たる正報と、その()りどころたる依報とが一体不二の関係にあることを明かされているのであります。
 故に、大聖人様は『瑞相御書』に、
(それ)十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は(たい)のごとし」(御書 九一八㌻)
と仰せられているのであります。
 よって、正報たる我ら衆生の六根のあらゆる(はたら)きが、そのまま依報たる国土世間へ大きく影響を与えているのであります。
 例えば『諸経と法華経と難易の事』には、
「仏法やうやく(てん)(どう)しければ世間も又(じょく)(らん)せり。仏法は(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(同 一四六九㌻)
と仰せられ、さらにまた、先程の『瑞相御書』には、
「人の(よろこ)び多々なれば、天に吉瑞(きちずい)をあらはし、地に帝釈の(うごき)あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に(きょう)(よう)(しゅっ)(たい)す」(同 九二〇㌻)
と仰せられているのであります。
 この依正不二の原理は、凡夫の智慧をもっては到底、計り知ることのできない、仏様の透徹された智慧であり、三世十方すなわち、無限の時間と空間を通覧せられて、宇宙法界の真理を悟られた仏様が明かされた絶対の知見であります。
 したがって、宇宙法界の根源の法たる妙法に照らして示された、この依正不二の大原則を無視して、今日の如き混迷を極める惨状を救い、真の解決を図ることはできないのであります。
 すなわち『立正安国論』の正意に照らせば、正報たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、実乗の一善たる三大秘法の随一・本門の本尊に帰依せば、その不可思議広大無辺なる妙法の(りき)(ゆう)によって、我ら衆生一人ひとりの生命が浄化され、それが個から全体へ、衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて依報たる国土世間をも変革し、仏国土と化していくのであります。
 反対に、我々衆生の生命が悪法によって濁れば、その濁りが国中に充満し、依報たる国土の上に様々な変化を現じ、天変地夭等となって現れてくるのであります。
 これが『立正安国論』に示された原理であり、この『立正安国論』に示された大聖人様の御正意を(たい)して、仏国土実現を目指して一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。
 もちろん、今、大震災の復興へ向けて、各機関の方々、ボランティアの方々、国内のみならず、国外からも支援の手が差し伸べられていることは大いに評価すべきであり、賞賛に値する行為であることは間違いありません。
 しかしまた、さらに根本のところか、仏法の視点に立って、今、我々がなすべきことは何かといえば、私ども一人ひとりが『立正安国論』の御理想実現へ向けて、一人でも多くの人に、また一日でも早く、一人ひとりの(しん)(でん)に妙法の仏種を植え、折伏を行じていくことが、今、なすべき最も大切なことであります。
 どうぞ、皆様には、
「大悪をこ()れば大善きたる」(同 七九六㌻)
との御金言を確言し、僧俗一致してますます信心強盛に折伏に励まれますよう、心から願うものであります。
 なお、今回の大震災に当たり、宗門といたしまして義援金を募集したところ、全国の寺院、僧侶、寺族、御信徒から多くの寄金をお届けいただき、心から厚く御礼を申し上げます。このあと、宗務院におきまして配分などを検討の上、災害復興に向けて供してまいりたいと思います。皆様方の御協力に心から感謝申し上げ、この席を借りて厚く御礼申し上げます。まここに有り難うございました。
 以上、本日はこれをもって挨拶とさせていただきます。 平成二十三年四月度 広布唱題会の砌
 
 四月
 現在の如き、人心が極度に荒廃し、世の中が乱れ、すべての社会現象が混迷を極めている原因は、ひとえに謗法の害毒にあり、その謗法を退治していかなければ、自分自身の幸せも、他の人々の幸せも、混(こん)沌(とん)とした現状を打開することも、平和な仏国土を築いていくこともできないのであります。
 今こそ我々は、一切衆生救済の秘法たる大聖人の本因下種の仏法をもって、世のため、人のため、真の世界平和実現を目指して立ち上がり憂国(ゆうこく)の士となって折伏を行じていくことが、最重要課題であることをよくよく認識し、異体同心・一致団結して、すべての法華講員が折伏に励まれますよう心から願うものであります。「如来の室とは、一切衆生の中
 平成二十二年 元朝勤行の砌
 
 三月  
 今、宗門は折伏の気運が大いに高まり、僧俗一致しての取り組みによって昨年は国内外ともに大きな成果を上げることが出来ました。
 その中でも特筆すべきは、インドであります。海外部からの報告によりますと、昨年、インドのムンバイ地方では約一千二百人の方が御受戒をお受けになりました。その活動のもとになったのは、わずか三人からの折伏であります。
 一人はご婦人で、元マレーシア人でありますが、三十年前に日本に帰化し、十年前に入信し、今はインドのムンバイにある旅行会社を経営しています。
 もう一人は、この方の兄に当たる方で、今はインドに帰化して、ムンバイに住んでおります。この方が一昨年、心臓病を患い緊急手術をいたしました。医者によると九十九パーセント命が助からないとのことでありましたが、前々から妹さんより折伏を受けており、お題目をあげ始めたのであります。その結果、手術も無事成功し、大きな功徳をいただいたのであります。そしてその後、一念発起して、妹さんと、あと一人のインド人の方と三人で折伏に立ち上がったのであります。
 三人目の方は、インド人の方で、ムンバイ地方の一粒種的存在でありましたが、活動する同志もなく、一人信心を続けていましたが、今、申し上げたように、このご兄姉と出会い、力を合わせ、三人で折伏活動を
開始したのであります。その結果、驚くことなかれ、昨年は千二百人の方々が御受戒を受けられたのであります。まさに驚異的な数字であります。
 さらに今般、現地から海外部に電話があり、「現在、六百名の方が御受戒を待っています。いつ御受戒に来てくれますか」と言ってきたということであります。
 わずか三人から始めた折伏も、三人が心を合わせ、身軽法重・死身弘法の御聖訓のままに、何も恐るることなく、本気で折伏を実践していけば、折伏の輪は波状的に広がり、かくの如く、千二百人もの人を入信させることが出来るのであります。、まさに、折伏は「本気になってやればできる」という証であります。
平成二十三年二月度 広布唱題会の砌
 
 二月
  『御講聞書』には、「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益有るべき時なり」(御書一八一八頁)と仰せであります。
 すなわち、今、末法は折伏を行じて、初めて仏様の大きな功徳を受けることができるのであります。まさしく、悪業の因縁を断ち、充実した境涯を築き、幸せな日々を送り、功徳に満ちた人生の構築を願うならば、まず折伏を行ずべきであります。そして、それが今日、広布へ向かって前進する我ら本宗僧俗のなすべき使命であり、これが最善の道であることを、我々はよく銘記するべきであります。
 貪瞋癡の三毒によって苦しむ人々を救う道は、ただ折伏しかないことは、皆様も充分、御承知のことと存じます。しかし、承知していただけでは意味がありません。
 本年は理屈ではなく、一人ひとりが、「実践行動」を起こして折伏を行じ、自らも大御本尊様の広大なる功徳を享受するとともに、塗炭の苦しみにあえぐ多くの人達を救い、もって仏祖三宝尊への御報恩を尽くされますよう心からお願い申し上げ、本日の挨拶といたします。

 
平成二十年八月 広布唱題会の砌
 
平成二十三年一月
 昨今の諸相を見ますと、貪瞋癡の三毒強盛にして人心は極度に荒廃し、ために国内外ともに混迷を極め、多くの人達が不安を抱き、内憂外患しているのが現状であります。
 しかし、こうした現状を見て、今こそ我々は、大聖人がお示しあそばされた『立正安国論』の原理に基づいて、破邪顕正の戦いをより一層、強力に推進していかなければなりません。
 もちろん、末法において折伏を行じていくことは容易なことではありません。
 『唱法華題目抄』には、「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑い無し」(御書231頁)と仰せの如く、末法の衆生は本未有善にして、成仏得道なり難き人々が大半であるからであります。
平成二十〇年八月 広布唱題会の砌
 
  平成二十二年 十二月(全文掲載)
 本日は、十一月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
 本年「広布前進の年」も、いよいよ十一月に入り、各支部ともに誓願達成へ向けて日夜、御精進のことと思います。
 本年度の戦いが、平成二十七年・三十三年の目標達成にとって極めて重要であることは、皆様方も重々御承知のことと思います。どうぞ、皆様には残り(ふた)(つき)、全力を傾注して、全支部が本年度の誓願を必ず達成されますよう、なお一層の御精進を心からお祈りする次第であります。
 さて、法華経の提婆達多品を拝しますと、
「未来世の中に、()し善男子、善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に(しん)(きょう)して、疑惑を生ぜざらん者は、地獄、餓鬼、畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん」(法華経 三六一㌻)
と仰せであります。
 提婆達多品は、大きく分けると二段に分けられ、前半は提婆達多の成仏、すなわち悪人成仏が説かれ、後半は八歳の竜女の成仏、すなわち女人成仏が説かれております。
 このうち提婆達多については、『大智度論』には阿難の兄、釈尊のいとこに当たるとされ、幼いころから釈尊に敵対し、のちに出家して釈尊の弟子となりましたが、名聞名利の念が強く、高慢な性格から退転して、五逆罪を犯して地獄に()ちたと言われております。
 普通、五逆罪と言いますと、『聖愚問答抄』にもお示しの如く、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身の血を出だし、和合僧を破す、の五つを指しますが、提婆達多が犯した五逆罪とは、まず初めに、釈尊に替わって教団を指揮しようとして、五百人の()()を誘惑して和合僧を破ったこと。二番目に、大石を落として仏身より血を出したこと。三番目に、阿闍世王を(そそのか)して(すい)(ぞう)を放ち、仏を踏み殺させようとしたこと。四番目に、蓮華比丘尼をこぶしをもって殺したこと。五番目に、毒を手の爪に塗って、仏足を礼するふりをして仏様を傷つけて殺そうとしたこと、この五つであります。この結果、提婆達多は、大地が()け、生きながら地獄に堕ちたと言われています。
 このように、提婆達多は極悪非道の罪を犯したのでありますが、釈尊が昔、国王と生まれ、大乗のために王位を捨て、大乗の法を求めて修行をしていた時、妙法を(たも)つ阿私仙人に会い、千年の間、この仙人に身命を尽くして仕え、仏道修行に励み、ついに仏に成ることができたのであります。この時の仙人こそ、実は今の提婆達多であり、これによって提婆達多は天王如来として、未来成仏の記別を与えられたのであります。
 これは、ひとえに妙法の()(りき)によるものであります。つまり、爾前諸経におきましては、十界互具一念三千が明かされないために、悪人は悪を滅して善を修し、善人となって成仏するか、あるいは一切の煩悩を断じなければ成仏できないとされてきたわけであります。
 しかし法華経では、十界互具一念三千が説かれ、九界の迷いの衆生の生命のなかに尊極無比の仏の生命が秘められており、地獄の衆生も仏に成りうるし、いかなる者でも成仏できる可能性を示されているわけであります。
 故に『一念三千法門』には、
(およ)そ此の経は悪人・女人・二乗・(せん)(だい)(えら)ばず。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云ふ。善悪不二・邪正一如と聞く(ところ)にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。義を知らざる人なれども唱ふれば(ただ)仏と仏と(よろこ)び給ふ。『我即歓喜諸仏(やく)(ねん)』云云」(御書 一一〇㌻)
と仰せられているのであります。
 すなわち、妙法への信によって、提婆達多をはじめ悪人も女人も、一切衆生がすべて即身成仏できるとする至極の法門が説かれているのが法華経であり、その法華経とは、(こん)()末法に約して申せば、すなわち本因下種の妙法蓮華経であります。この偉大なる妙法蓮華経の功徳によって、悪逆の提婆達多も未来成仏が保証され、一切衆生もことごとく成仏することができたのであります。
 ただし、ここで肝心なことは、経文に「浄心に信敬して、疑惑を生ぜざらん者」とあるように、「浄心」すなわち清浄な心で仏様を信じ敬い、「疑惑を生ぜざらん者」すなわち仏様に対して、疑いの心を持たずに信じきっていくことが、最も肝要なのであります。
 「()()(わっ)(しん)」すなわち「疑い無きを信と()う」という言葉がありますが、私どもの信心に約して言えば、大御本尊様に対し奉り絶対の信を取り、疑いを持たず信じていくことが成仏得道のためには最も大事なことなのであります。
 故に『御義口伝』のなかには、
「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は(がん)(ぽん)の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」(同 一七三七㌻)
と説かれております。
 すなわち、大御本尊様に対する絶対の信、疑いを持たない無疑曰信の信が成仏を(けつ)(じょう)する最大の要因であり、この信を貫いてこそ初めて、我々末法本未有善の荒凡夫は成仏することができるのであります。
 故に『四条金吾殿御返事』には、
「ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、()れたる()くち()に火を()()くるがごとくなるべし。はげみをなして(ごう)(じょう)に信力を()だし給ふべし」(同 一四〇七㌻)
と仰せられ、いかに大御本尊様の御威光が広大無辺であったとしても、行ずる者が御本尊様に疑いの心を持ち、不信のままに祈りを捧げても、広大なる御本尊様の功徳を(きょう)(じゅ)することはできないのであります。つまり、御本尊様の仏力・法力がいかに絶大であろうとも、我らの信力・行力が欠けていたのでは四力成就に至らず、祈りはかなわないのであります。
 また、法華経の譬喩品には、智慧第一と言われた舎利弗すら、己れの智慧才覚によって成仏したわけではなく、「以信得入」すなわち信によって得道することができたことを挙げて、ただ信のみが成仏得道のための要諦であると説かれているのであります。
 したがって、我々も同様、大御本尊様への絶対の信によって成仏が決まるのでありますから、なお一層の強盛なる信心が肝要であります。
 もちろん、この信とは、自行だけの信心ではなくして、自行化他にわたる信心でなければなりません。大聖人様は『如説修行抄』に、
「末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は(とう)(じょう)堅固・(びゃく)(ほう)(おん)(もつ)の時と定めて権実(ぞう)(らん)の砌なり。敵有る時は(とう)(じょう)(きゅう)(せん)を持つべし、敵無き時は弓箭(ひょう)(じょう)なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の()の時は権教有って敵と成る。まぎ()らはしくば実教より(これ)を責むべし(中略)されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても(おわ)せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経(ひと)り成仏の法なりと(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(同 六七二㌻)
と仰せであります。
 たとえ五逆罪を犯した悪逆の提婆達多でさえも、成仏できる妙法の偉大なる功徳を、自分一人だけのものとしないで、(とん)(じん)()の三毒に害せられ、苦悩にあえぐ、より多くの人達を正しい信心に導いていくことが、大聖人様の弟子檀那として今、最も肝要であり、これこそ御本仏大聖人のお心にかなう自行化他の信心であります。
 所詮、世の中においては、一人だけの幸せは存在しません。『立正安国論』には、
「汝(すべから)く一身の(あん)()を思は、ゞ先づ四表の(せい)(ひつ)を祈るべきものか」(同 二四九㌻)
と仰せであります。
 「四表」とは、東西南北の四方、転じて世の中、天下のことであります。「静謐」とは、世の中が平和で穏やかに治まっていることであります。すなわち、我々が平和で安穏なる生活を望むならば、まず世の中が平和で穏やかであるように祈らなければならないと、このように仰せられているのであります。
 この「世の中」とは、小さく言えば家庭とか、あるいは自分を取り巻く身近な環境を言うこともありますし、大きく言えば社会および国全体、世界全体を言うこともあります。
 いずれにいたしましても、自分を取り巻く環境世界と我々との関係は極めて密接な関係にあり、例えば、戦争などが起これば個人の小さな幸せは立ち所に消えてしまいます。世の中が静謐でなければ、個々人の幸せは確立しないのであります。その世の中が静謐であるためには、大聖人が、
「早く天下の静謐を思はゞ(すべから)く国中の謗法を()つべし」(同 二四七㌻)
と仰せの如く、不幸の根源である国中の謗法を断つことであります。
 なぜなら、世の中の不幸と苦悩と混乱の原因は、すべて謗法の害毒によるからであります。このことは、既に大聖人様が『立正安国論』において警鐘を鳴らし、明言しておられるとおりであります。
 その「謗法を断つ」とは、すなわち折伏を行ずることであります。己れ自身の幸せと世の中の幸せは深い関係にあることを知り、自他共に成仏していくところに真の幸せがあり、そのためには一人ひとりが折伏の大事と功徳と尊さを自覚して、妙法広布に(てい)(しん)していくことが最も肝要なのであります。
 特に、昨今の世情を見ると、謗法の害毒によって人心が極度に荒乱し、(こん)(とん)とした様相を呈しております。こうした現状を見るとき、我々は一人でも多くの人達が、不幸の根源である邪義邪宗の謗法を捨てて、本門戒壇の大御本尊様に帰依せられるよう、全魂を込めて折伏を行じていかなければならないと思います。一人ひとりの幸せはもとより、すべての人々の幸せと世界平和の実現は、我々が等しく願うところであります。
 されば、『立正安国論』の原理に照らし、広布実現を目指して、今こそ「広布前進の年」にふさわしく、一人ひとりが真剣に折伏を行じていかなければなりません。
 どうぞ、皆様には本年「広布前進の年」、残り(ふた)(つき)、誓願達成へ向けていよいよ御精進くださるようお願いいたしまして、本日の挨拶といたします。
平成二十二年十一月 広布唱題行の砌
 
 十一月 
 
 一般社会においても、自分一人だけの幸せはありえないように、自他共の幸せこそ真の幸せであります。
 しこうして、 自他共の幸せを実現するためには、大聖人の御教示に照らして、折伏をもってする以外には道はないのであります。なぜなら、一切衆生救済の秘法は、法華経本門寿量品文底秘沈の大法たる妙法蓮華経以外にはないからであります。
 故に『報恩抄』には、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり」(同1036ページ)
と仰せであります。
 されば、今日、我々が地涌の菩薩の眷属として、この妙法蓮華経の大法をもって一切衆生救済の大願のもと、一心に折伏に励むことは、仏様の御意にかなう至高最善の仏道修行となるのであります。 
 平成二十二年十月 広布唱題行の砌
 
 十月  
 本来、御本尊を受け取ること自体が難事ではありますが、ことに持ち続けることはそれ以上に難しく、受持のなかでも持つことすなわち「持」に重点が置かれていることを、我々は銘記しなければなりません。
 さらに、ここで大聖人様は、御本尊様を受持する者には必ず難が起こると仰せられその難に振り回され、信心を続けていくことが困難であるが故に、特に「持つはかたし」と仰せられているのであります。
 しかし、振り返ってみますると「さる間成仏は持つにあり」と仰せのように、いかなることがあっても御本尊様を持ち続けていくところに難を乗り越え、何ものにも代え難い、絶対の幸せを築くくことができるのであります。
 平成二十二年九月 広布唱題行の砌
 
九月  
 自分自身を取り巻く人々のなかには、学校や職場での仲間や先輩・後輩、なかでも親友と言われる人、様々な恩恵を受けた人、お世話になった人、苦楽を共に歩んできた人、身近なところでは両親・兄弟・子供、親類縁者、色々な人がいると思いますが、そのなかで未入信の人がいたら、そして、その人の真の幸せを願うならば何を差し置いても折伏すべきであります。もし、家族のなかで未入信の人がいれば御受戒を受けさせ、一家和楽の信心に住すべきであります。
 相手との人間関係がこわれることを恐れて折伏もせず表面のみ親しくするのは、まさに「慈無くして詐り親しむ」、慈悲の心もなく詐り親しむ偽美的行為であり「彼が怨」であります。
 この失を逃れるためには、不幸と混乱と苦悩が原因がすべて邪宗邪義の害毒にあり、謗法を捨てて正法に帰することが幸せになるための最善の方途であることをはっきりと伝え躊躇せず折伏を実践すべきであります。
平成二十二年八月 広布唱題行の砌 
 
 八月
 
 大御本尊様への絶対的確信、無疑曰信の信心、すなわち「この大御本尊以外に絶対に幸せになれる道はない」との確信に満ちた我々言動が相手の心に響き伝わり、折伏成就に必ず結びついていくのであります。
 次に大事なのは、飽くなき行動であります。
 この不軽菩薩の飽くなき実践は、滅後末法の我々の折伏実践の方途を示唆されているものと思います。すなわち、すべての人に仏性ありとして、いかなる人にでもこの「二十四字の法華経」を説き、但行礼拝をしたこと、さらに信念を貫くことによって受けるいかなる困難・迫害にも耐えぬき、飽くなく法華経を説き続けたことは、今日の我々の折伏実践の上からもまことに大事なことであります。
 平成二十二年七月 広布唱題行の砌
 
 
 七月
 末法当世の人達は、直接、法華経を聞いて誹謗をしたわけではなくても、意味も解らずに、例えば神社・仏閣などへお参りをして、知らず知らずのうちに邪義邪宗の害毒を受けて、その結果、法華経に背き、地獄へ堕ちることになるのであれば、強いて法華経を説くべきであり、もし、素直に法華経を聞いて信ずる順縁の者は直ちに仏と成り、たとえ信じないで誹謗する逆縁の者であっても、法華経を
(そし)った縁によって法華経に触れ、仏種が植えられ、いったんは地獄に堕ちるが、それを縁として必ず仏に成れるのであると、このように仰せられているのであります。 平成二十二年五月 広布唱題行の砌
 
 六月
 
 我々は値い難き人界に生を受け、さらに値い難き仏法に値い奉り、一閻浮提第一の大御本尊様に巡り値うことができまして、最高の境界におります。
 この喜びは何事にも代え難い無上の喜びでありますが、我々はこのたぐいまれなる境界に心から感謝し、仏祖三宝尊に対し奉り衷心より御報恩謝徳申し上げるとともに、この功徳と歓喜を受け身として自分一人だけのものとせず、自行化他の御聖訓のままに、一人でも多くの人々に大聖人様の仏法を伝え、下種折伏していくことが今、最も肝要であろうと思います。
 なぜならば、折伏は最高の報恩行であり、一切衆生救済の慈悲行であるからであります。つまり、折伏することによって相手を幸せに導き、また自らも無始以来の謗法の罪障を消滅し、現当二世にわたって自他共に幸せになることができるからであります。
 平成二十二年五月  広布唱題行の砌
 
五月
 すべての支部は、年頭に当たり、それぞれ本年度の折伏誓願を立てたと思います。いかなることがあろうと、御宝前において立てた誓願は必ず達成するようにしなければなりません。誓願は、あくまで達成するために立てられたものであります。
 『開目抄』には、
「つなき者のならひは、約束せし事をまこの時はわするゝなるべし」(同 五七四㌻)
と仰せであります。
 私達はこのようなりを、けっして受けてはなりません。御本尊様の御前で立てた誓願を、講中が一致団結、全力を傾注して達成し、晴れて御本尊様の御照覧をいただくことほど無上の喜びはありません。
 平成二十二年四月 広布唱題会の砌 
 
 四月
 本年は「広布前進の年」であります。世界的に天変
地夭が続発している今日、世界の平和と安穏を実現する唯一の教えこそ、末法の御本仏大聖人様の仏法であり、その具体的実践方途こそ折伏であります。
 世の中が平和になってこそ、個人の幸せも実現できるのであります。故に『立正安国論』には、
「汝く一身の安堵を思はゞづ四表の静謐るべきものか」(同 二四九㌻)
と仰せであります。
 平成二十二年三月 広布唱題会の砌
 
 三月
 
 特に末代の衆生の成仏、不成仏は、罪の軽重によって決まるのではなく、その人の信、不信、すなわち信心があるか、ないかによって決まると仰せられているのであります。
 すなわち「以信得入」と仰せのように、信こそ成仏得道の道の要諦(ようてい)であります。
  大百連 平成二十二年二月
 
 二月 
 「如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是なり」
とあるように、「如来の室に入る」とは、大慈悲心を起こすこと。つまり自らの命の中に一切衆生を救済していこうという慈悲の心を起こすことです。
 これは折伏にとっては、極めて大事なことであります。相手を本当に救っていこうという心がないと、やはりその命は相手にどうしても伝わっていきません。
 ですから、慈悲の心を持って「この人を何としても救っていく」、「あの人の不幸を何としても打ち破っていく」、そういう慈悲の心を持つべきであるということであります。
夏期講習会第一期 平成十八年五月 
 
 平成二十二年 一月
 
私どもは「大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし」との御金言をよくよく拝し奉るべきであります。
 いかなる大難が競い起きようが、一生成仏への絶好のチャンスであると受け止め、なお一層の信心に励むところに、我々の成仏の道が必ず開かれてくるのであります。否、むしろ難を呼び起こすほどの闘いをしていくところにこそ、即身成仏、立正安国の道が開かれてくるのであります。
 平成二十年八月 広布唱題会の砌
 

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