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法主日如上人猊下御指南抄 
 
                  年度/ 22~29 | 30~r2
 

 令和二年二月度
 
我々自身がお題目を唱えていくと、その功徳を以って、上七代、上無量生にわたる様々な先祖代々の追善供養を行うことができるのであり、また今度は下七代、下無量生にわたる人達に功徳を及ぼすことができるのです。そして、それは今、私たち自身が、どのように生きるか、どう信心していくかにかかっているのであります。  大日蓮十一月号
 
 令和二年一月度
 
私共が正法正義に基づいて信心に励み、折伏を行じていけば、様々な難が惹起し、正法流布を妨げることは必定であります。将に、
 「此の法門を申すに(中略)魔競わずば正法と知るべからず」(御書九八七)
であります。
 されども、この大難を打ち破らければ、真の幸せを招来することは出来ないのであります。『御義口伝』には、「末法に於いて今日蓮等の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来るを以って安楽と意(こころ)得(う)べきなり」(一七六二)と仰せられています。難を呼び起こし、その難を打ち破って、いくところに、過去遠々劫からの罪障を消滅し、一生成仏をはたらかすことが出来ることを知るべきであります。  大日蓮八七五
 
  令和元年十二月度 
 
()()ず国土を(やす)んじて現当を祈らんと(ほっ)せば、(すみ)やかに情慮(じょうりょ)(めぐ)らし(いそ)いで対治を加えよ」(新編御書二四八頁)
と仰せであります。
 折伏こそ、仏国土実現、一切衆生救済の最善の方途であり、最善の方途であり、最高の慈悲行であります。
また己自身の一生成仏にとっても、不可欠にして最上の仏道修行であります。
              平成二十五年十一月三四日 於 総本山
 令和元年十一月度
 「若しは実にもあれ、不実にもあれ」との仰せは非常に大事であります。いかに過ちがある人でも、人は皆、仏性を備えておりますから、その人の悪を挙げるのではなく、その人の内在する仏性をよびおこす、つまり仏性が仏性としての用(はたら)きをするように仕向けていく、すなわち折伏し、妙法を下種して正しい信心に導いていくことがだいじなのであります。
 このことから、我々の折伏には、心から相手を本当に思う慈悲の心が大事であることを、よくよく拝していかなければなりません。このことがあって初めて、折伏が折伏としての成果と意義を存していくのであります。 平成三十年六月二十四日 於 総本山
 
   令和元年十月度
 折伏というと、何か構えてしまって、鎧兜を着けたようになってしまう人もいるのですが、そうではないのです。折伏は、その人救うのだから、慈悲の心が慈悲のこちら側になければだめなのです。もちろん、邪儀邪宗に対しては厳しく破折しますが、その根本は慈悲なのですから、これを忘れてはならないのです。
 だから、だれでも折伏はできるのです。ただしないだけです。折伏をしなければ、いくらお題目を唱えていても、自行化他の信心の片一方がかけてしまい、自行化他の信心がそろわないことになります。だから、大聖人様は「一文一句なりともかたらせ給ふべし」と仰っているのです。これを実践して初めて、大きな功徳を招来することができるのであります。 平成三十年六月十七日 於 総本山
 
   令和元年九月度
 心の財(たから)」とは、心の豊かさであります。妙法蓮華経を信仰し、その功徳鵜によって得た心の豊かさが大事なのです。
 その人間性の大きさ、あるいは包容力、豊かさこそが、自他共の幸せを築く最善の原動力であるということを、私たちはよくよく知らなければなりません。しかも、それは表面的、あるいは一時的な幸せではなく、基本的、絶対的な幸せのためにも、まず私達は心の財を求めていくことが最も肝要であります。
 特に今、末法濁悪の世の中にあって、一人ひとりがこの心の財を積んで妙法広布に生きることが、いかに尊く肝要であるかを知らなければなりません。それには、まず己れ自身がしっかりとお題目を唱えていくことが大事であります。
                      (大日蓮七月号三七頁)
 令和元年八月度
 折伏は結局、我々の言っていることを、相手が信じてくれなければ何もなりません。相手の信頼に足る言葉、相手信頼に足る行い、そして
(こころ)がなければ、折伏は成就しないのであります。大御本尊への絶対信をもって自行化他の信心に励む時、まさに妙法の広大なる功徳によって、自らが変わり、相手が変わり、折伏成就に至るということを、よくよく知らなければなりません。一人ひとりがこのことをしっかりと認識せられて、お題目を唱え、自らが勇気を持って折伏に出るようにしていただきたいと思います。
       夏期講習会 第一期 大日蓮八八一号
  令和元七月度
 私達が折伏をして謗法を破折するのは、この謗法こそが不幸の根源であるからであります。つまり、大聖人様の教えを正しく行じて行くためには、なんと言っても謗法厳誡ということが大事であります。
 宗門でも受持信行とか折伏正規など色々な大事なことが説かれますが、そのなかで謗法厳誡ということも、厳しく教えておるのです。
 謗法があればどういうことになるのか。結局不幸の根源は謗法であり、知らず知らずのうちに謗法を犯すこともありえますから、我々はきおつけなければいけないのです。
 大日蓮・平成三十年九月号
 
  令和元六月度
 自分で一生懸命、信心して「私はお題目をいっぱい唱えていますよ」「一日何回も唱えてますよ」
と言っても、折伏を忘れてしまったら、自行化他の自行化他の一方が欠けてしまいます。大聖人様の教えは自行化他の信心です。今日は、今日はそのことをしっかりと覚えておいてください。
 これから、みんなで心を合わせて折伏に励んでいくことが、皆さん一人ひとりの本当の幸せにつながるのであります。自らも幸せになれますし、折伏した相手も幸せになれます。これが折伏です。
    妙祥寺移転新築落慶法要の砌  大日蓮・平成三十一年四月号
 
  令和元年 五月度
 大事なことは何かといえば、この信心をしっかりして、自行化他に励んでいくことです。
 まず、朝夕の勤行をしっかりやりましょう。この朝夕の勤行が、信心の根本です。それからもう一つ、「一文1句なりともかたらせ給ふべし」(御書六六八頁)と仰せですから、ひとこともいいので「この信心をしませんか」とお話ししていかなくてはなりません。折伏も、ここから全部、スタートするのです。
 妙祥寺移転新築落慶法要の砌 大日蓮・平成三十一年四月号
 
  平成三十一四月度
 だいたい、少しの謗法などないのです。少しでも何でも、やはり謗法は謗法なのです。だから、まさにこの「何に法華経をじ給ふとも、信謗法あらば必ず地獄にをつべし」の御文において、大聖人様は厳しく、謗法をすると地獄に堕ちるぞとおっしゃっているのです。このことを私達はよく知らなければなりません。 平成三十年五月 夏期講習会 第二期 
 
   三月度
 信心とはなんでありましょうか。これは、まず朝夕の勤行から始まるのです。勤行もしなければ信心は語れませんし、折伏もできません。やはり、しっかりと朝夕の勤行をしていくことが信心の基本です。そして、その上に行体や学問という物が成り立ってくるのでありますから、是非、信ということをしっかり念頭に置いてもらいたいと思います。
平成三十年六月 夏期講習会 第四期 
 
  二月
 大聖人様は、折伏について『南条兵衛七郎殿御書』に、「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書三二二頁)と仰せられております。
 法華経の敵(かたき)、すなわち正法正義を破壊しようとする邪義邪宗の謗法を破折し、折伏もしないようでは、一生成仏はおぼつかないと仰せられているのであります。
平成三十年七月 広布唱題会の砌 
 
  平成三十一年 一月 
  『撰時抄』に、「法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(御書八六八頁)と仰せであります。
 一人ひとりの力は小さくとも、それが「二人・三人・十人・百千万億人」ともなれば大きな力となり、広宣流布への大きな流れとなっていくのであります。
                 平成二十六年一月三日 唱題行の砌
 

  平成三十 十二月
 我々の戦いは、御本仏大聖人様の御遺命のままに、世のため、人のため、一切衆生救済のため、一天四海本因妙広宣流布を目指した崇高なる戦いであります。
 されば、今、我々も、万難を排して妙法広布に生きることこそ、大聖人様の弟子檀那として、最も価値ある生き方ではなかろうかと思います。平成二十五年十月 広布唱題会の砌
 
  十一月  
 折伏はしたが、育成をないがしろにしてしまえば、折伏された人にとっても不幸であり、折伏した人もまた、無慈悲の侮りを受けることになります。
 その育成を図るためには、講中がいかに育成が大事であるかを銘記して、講中全体が育成に真剣に取り組んでいかなければなりません。
            平成二十七年十一月 広布唱題会の砌
 

  十月
 大聖人様は『上野殿御消息』に、
「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり」(御書九二三頁)
と、仰せであります。
すなわち、妙法を持ち、信心をしている人は、それ自体がおのずと父母の恩を報ずることになっているということであります。たとえ、自分の心では親の恩を報ずることになるとは思っていなくとも、御本尊様の広大無辺なる仏力・法力によって、恩に報いることができるのであると仰せられているのであります。
             平成二十五年度 少年部大会の砌
 

  九月
 「艱難、汝を玉にす」という言葉もあります。
行く手を阻む様々な困難を乗り越え、物事を成就していくことは、たしかに難事ではありますが、しかし自行化他の信心に励み、諸難をものとせず、己れを磨き、所願を達成していくところに、我々の一生成仏の鍵があることを銘記すべきであります。   平成二五年十月 広布唱題会の砌
 

  八月
  今、末法は「邪智・謗法の者の多き時」であり、この時は、何を差し置いても折伏ををもって謗法を破折して、塗炭お苦しみに喘ぐ人々に妙法を下種し、一人でも多くの人を救っていかなければならないのであります。    
                  平成二十五年八月 広布推進会の砌
 

  七月
 『辨殿御消息』には、
 「なづきをくだきているのに、いままでしるしなきは、この中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ」(御書九九八)
と仰せられ、頭が砕けるほどに祈り祈っても、祈りがかなわないのは「心のひるがへる人」すなわち、異体異心の者がいるからであると、厳しく御制裁あそばされているのであります。
 まさに、広宣流布の戦いにおいて最も大事なことは異体同心の団結であることを、一人ひとりが心に刻み、広布達成を期して、これからもなお一層の団結を固めていくことが肝要であります。
                平成三十年四月二十一日 於台湾 
 

  六月
  不幸の根源となる謗法を退治するためには、まず第一に大御本尊様への微動だにもしない、確乎不抜(ふばつ) の絶対的確信を持つことであります。その大御本尊様 への絶対的確信のもとに、謗法厳戒の宗是を固く守り、自行化他の信心に励むところ、必ず転迷開悟の大功徳を享受することができるのであります。
 大御本尊様 は『御講聞書』に、
今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。
と仰せであります。
     平成二十七年八月 広布推進会の砌
 

  五月
  我々の一人ひとりの折伏は、小さなことに感じるしかもしれません。しかし、みんなで折伏すれば、大きく変わるはずです。つまり、我々一人ひとりの折伏は、手を抜いてはダメなのです。この一人ひとりの折伏こそが大きな力になっていくのです。「一文一句なりともかたらせ給ふべし」というのが、大聖人様 の御言葉です。たとえ一文一句なりとも、折伏していくことが大事なのです。         法顕寺板御本尊入仏式の砌平成二十九年十月 
 

  四月
  世の中の多くの人々は、自分の死を眼前にしなければ、生死の問題を真剣に考えようとはせず、頭では解っていても、日頃の煩雑さに紛れ、あるいは快楽や世間の名聞や体裁に報われて、虚しく一生を過ごし、六道を輪廻しているのが現状であります。しかしながら、いかなる人も死を免れることは出来ないのでのでありますから、一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を信じ、生死の理を正しく領解して、未来永劫にわたる幸せの境界を、今こそ築いていくことが、最も肝要なのであります。     平成二十九年十月 広布唱題会の砌
 

  三月
  ます。我々の折伏は、理屈の言い合いではないのです。邪義邪宗の害毒によって苦悩に喘ぐ人を救っていくのですから、これはお題目しかないでしょう。お題目を唱えて、我が命に大きな後仏智を頂き、その心で折伏をしていくことが大事なのであります。           平成二十七年法華講夏期講習会
 

  二月
 大聖人様は、桜梅桃李ということをお示しになっているように桜は桜、梅は梅と、それぞれが長所をしっかり伸ばし、広宣流布という一点に力を合わせていくところに真の団結が生まれてくるのです。
           平成二十七年法華講夏期講習会
 

  平成三十年 一月
 仏法の上から申し上げるならば、自分を折伏してくれた人に対する感謝と恩返しは、今度は自分が折伏する立場に立って、いまだこの大法を知らない人のために、一切衆生救済の秘法たる大聖人の仏法を説いていくこと、すなわち折伏することこそが、最高の恩返しとなるのであります。    平成二十九年九月三日 於 総本山
 
 
     
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