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日蓮大聖人
暗記御書の一節

平成20年〜平成25年

                                  20〜2526〜r2
 月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。聖人御難事 平成新編御書一三九七

意訳 月々日々に奮い起(た)ちなさい。すこしでも油断する心があれば魔が近づいてくるであろう。(平成25年12月) 
 設(たと)ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして、只(ただ)法華経のみはぐらせ給ふべし。兄弟抄 平成新編御書九八七

意訳 たとえどのような煩わしい嫌なことがあっても、それらは夢の中のこととして、ただ法華経(御本尊)のことだけを思い続けなさい。(11月) 
 法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。百六箇抄 平成新編御書一六八七

意訳
法は自然に弘まらない。人が法を弘めるから、人も法も尊いのである。(10月) 
 功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。御義口伝 平成新編御書一七七五頁

意訳  功徳とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の果報である。所詮今日蓮や弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱えれば六根清浄となる。9月
 法華経を信ずる人のをそるべきものは賊人強盗夜打ち虎狼師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり。兄弟抄 平成新編御書九八〇頁

意訳法華経を信ずる人の恐れなければならないものは、賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも、現今の蒙古の攻めよりも、法華経の行者の信心を悩ます人である。(8月)
 仮令強(たといごう)言(げん)なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設(たと)ひ軟語なれども、人を損(そん)ずるは妄語(もうご)・強言なり。『善無畏三蔵抄(ぜんむいさんぞうしょう)平成新編御書四四五頁

意訳  たとえ強い言葉であっても、人を助けるためであれば、真実の言葉であり、柔らかい言葉である。たとえ口調が柔らかく、耳当たりのよい言葉であったとしても、人を不幸に陥れるようなことを教えるとすれば、それは妄語であり、人を傷つける強言である。(7月)
 皆法華経のゆへなればはぢならず。愚人にほめられたるは第一のはぢなり。開目抄下平成新編御書五七七頁

意訳〉  全て法華経の信心の為に悪口罵詈されるのであれば、誉れでこそあれ恥ではない。仏法を知らない愚人にほめられることが第一の恥なのである。(大聖人・御本尊にほめられよう)(6月) 
 人に物をほどこせば我が身のたすけとなる。譬へば人のために火をともせば我が前あきらかなるがごとし。食物三徳御書平成新編御書一三二一頁

意訳人に物を施せば我が身を助けることになる。譬えば人のために火をともせば自分の前も明るくなるようなものである。(5月)
  
 法華経は、初めは信ずる様なれども後遂ぐる事かたし。松野殿女房御返事平成新編御書一四九五

意訳 法華経を初めは信ずるようであっても最後まで信じとおすことはむつかしいのである。(4月)
 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。草木成仏口決平成新編御書五二二

意訳我等衆生が死んだ時に塔婆を立てて開眼供養するが、これが死の成仏であり、非情草木の成仏である。(3月)
 当年の大厄をば日蓮に任させ給え。釈迦・多宝・十方分身の諸仏の法華経のお約束の実不実は是にて量るべきなり。太田左衛門尉殿御返事平成新編御書一二二四

意訳 あなたの当年五七歳の大厄は安心してこの日蓮に任せなさい。厄を払いのけてあげます。釈迦・多宝・十方分身の諸仏が法華経の会座で守護すると誓ったのであるから、それが履行されるかどうかは、あなたの厄が払い除かれることによって証明されるのである。(2月
 
 仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。法華初心成仏抄平成新編御書一三二一

意訳 仏するためには、驕(おご)りや偏(かたよ)った考えの心をなくし南無妙法蓮華経と唱えることが肝要なのである 
(平成25年
  (平成24年12月)一生が間賢(けん)なりし人も一言(いちごん)に身をほろぼすにや。兄弟抄』 平成新編御書九八三頁
意訳一生の間賢明であった人も話す一言で身を滅ぼすのである。
 
 この文は始めて我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。『御義口伝』 平成新編御書一八〇一頁

 意訳 
法華経五百弟子授記品には「貧なる人此の珠を見て其の心大に歓喜す」と説かれている。この経文からはじめて自身の当体が本来仏であると知ることを大歓喜というのである。南無妙法蓮華経と唱えることは仏界の湧現であり、成仏を現していくから大歓喜の中の大歓喜である。
(11月)
 いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給ふべし 『四条金吾御返事』 平成新編御書一四〇七

 〈意訳 
どのように日蓮があなたの事を祈っても、肝心なあなたが御本尊を信じないならば、ぬれた口火に火を打ち掛けるようなもので、あなたの願いは叶わない。従って自らを励まして強盛に信力を出しなさい。 10月
 無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧(すす)めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。 『持妙法華問答抄』 平成新編御書三〇〇頁

 〈意訳 
南無妙法蓮華経と自身も唱え、他人にもそう勧めることこそが、人間として生まれてきた今生の思い出なのである。 (9月) 
 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書九九一頁

 意訳 
苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。 (8月)
 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来もまたしかるべし。是あに地涌の義に非ずや。 『諸法実相抄』 平成新編御書六六六頁

 〈意訳 
初めは日蓮大聖人一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人三人百人と次第に唱え伝えたのである。未来もまた同じであろう。これこそ地涌の義ではないか。 (7月)
 一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給ふべからず。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書一一六二頁

 〈意訳 
人間の一生は夢の上の出来事のように、はかないもので、明日の命も分からないものである。いかなる乞食になっても、法華経にきずをつけてはならない。 (6月)
 末代の凡夫、三宝の恩を蒙(こうむ)りて三宝の恩を報せず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地(しんじ)観(かん)経(ぎょう)・梵網経(ぼんもうきょう)等には仏法を学し円(えん)頓(どん)の戒を受けん人は必ず四(し)恩(おん)を報ずべしと見えたり。 『四恩抄』 平成新編御書二六八頁

 〈意訳 末代の凡夫は、仏法僧の三宝の恩を受けながら三宝の恩を報じようとしない。どうして仏道を成ずることができようか。そこで心地観経や梵網経などには、仏法を学び法華経の円頓(功徳が円満に具わり速やかに成仏を遂げる)の戒を受けた人は、必ず四恩(父母・衆生・国土・三宝の恩)を報じなければならないととかれている。 (5月)
 
 知者とは世間の法より外(ほか)に仏法を行(ぎょう)ず、世間の治世(ちせい)の法を能(よ)く能(よ)く心へて候を知者とは申すなり。  『減劫(げんこう)御書(ごしょ)』 平成新編御書九二五頁

 〈意訳 知者というのは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである。仏法を根本にして、世の中の法をよくよく心得ている人を知者というのである。
 (4月) 
 賢人(けんじん)は八風(はっぷう)と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・樂(たのしみ)なり。をゝ心(むね)は利(うるおい)あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御一一七頁

意訳 賢人は、八風という八種の風に侵されない人を賢人というのである。八風とは利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・樂(たのしみ)の八つをいう。主旨は、望み通りことが成就した時でも喜ばない。反対に望み通りにならず不満・不足の時でも嘆かない等をいうのである。 (3月)
 但(ただ)在家(ざいけ)の御身(おんみ)は余念(よねん)もなく日夜(にちや)朝夕(ちょうせき)南無妙法蓮華経と唱(とな)へ候(そうら)ひて、最後(さいご)臨終(りんじゅう)の時を見させ給へ。松野殿御返事  平成新編御一一六九頁

 〈意訳 但(ただ)し在家(ざいけ)の御身は、謗法(ほうぼう)の他念なく、毎日朝夕に南無妙法蓮華経と題目を唱え、最後(さいご)臨終(りんじゅう)の時を迎えるよう心がけなさい。 (2月)
 法華経を二人・三人・十人・百千万億(ひゃくせんまんのく)人(にん)唱え伝うるほどならば、妙(みょう)覚(がく)の須弥山ともなり、大涅槃(だいねはん)の大海ともなるべし。仏になる道は此(これ)よりほかに又もとむる事なかれ。 『撰時抄 平成新編御書八六八

 〈意訳〉 法華経の題目を二人・三人・十人、さらに百千万億人の人が次第に唱え伝えていくならば、妙覚の極果(ごっか)の須弥山ともなり、大涅槃の覚りの大海ともなるのである。我々が仏になる道は法華経の題目を唱え伝えるということ以外に求めてはならない。
 (平成24年1月) 
 法華経と申すは随(ずい)自意(じい)と申して仏の御心(みこころ)をと(説)かせ給ふ。仏の御心(みこころ)はよき心なるゆへに、たとい(仮令)し(知)らざる人も此の経をよみたてまつれば利益(りやく)はか(計)りなし。『衆生身心御書』平成新編御書一二一二頁

意訳 法華経という教えは、随自意といって仏の御心、すなわち悟りをそのまま説かれた教えである。仏の御心は最善の心である故に、たとえこの意義を知らない人であっても、この経を読み奉るならば、その利益は計り知れないほど大きい。 (平成23年12月)
 大地はさゝばはづるゝとも、虚空(こくう)をつなぐ者はありとも、潮のみち(満)ひぬ(干)事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず。『祈祷抄』平成新編御書六三〇

意訳 大地を刺してはずれることがあろうとも、虚空をつなぎ合わせる者がいようとも、潮が満ち干ないことがあろうとも、日が西より出ることがあろうとも、法華経の行者の祈りが叶えられないことはあろうはずがない。(どのようなことがあっても、法華経の行者の祈りは絶対にかなうのである。(11月)
 夫(そ)れ以(おもん)みれば 末法流布の時 生(しょう)を此(こ)の土(ど)に受け此の経を信ぜん人は如来の在世(ざいせ)より猶多(ゆた)怨嫉(おんしつ)の難甚(はなは)だしかるべしと見えて候(そうろう)なり『如説修行抄』 平成新編御書五〇一頁

意訳 つらつら考えてみるに、この末法という三大秘法の南無妙法蓮華経が流布する時に、生をこの日本国に受け、この経をたもち、信行に励んでいく人に対しては、法華経法師品第十に「末法においては、釈迦在世よりも猶怨嫉が多いであろう」と、釈迦は多くの大難が競い起こることを予言しているのである。 (10月) 
提婆(だいば)達(だっ)多(た)は阿鼻地獄(あびじごく)を寂光(じゃっこう)極楽(ごくらく)とひらき、竜女(りゅうにょ)が即身成仏(そくしんじょうぶつ)もこれより外には候はず。逆(ぎゃく)即(そく)是(ぜ)順(じゅん)の法華経なればなり。これ妙(みょう)の一字の功徳なり。『上野殿後家尼御返事』 平成新編御書三三七頁

 意訳 法華経を持つ人は、その功徳によって地獄を寂光土に転じていくのである・・・。提婆達多が阿鼻地獄を寂光土と開くことができたのも、竜女の即身成仏も、法華経を信ずること以外にはあり得ないのである。逆縁の衆生をたちまちに順縁にして救いきっていく法華経なればのことである。まさに法華経の妙の一字の功徳である。 (9月)
 御いの(祈りの叶ひ候はざらんは、弓のつよ(強)くしてつるはよは(弱)く、太刀(たち)つるぎ(剣)にてつか(使)う人の臆病なるようにて候べし。あへて法華経の御とが(失)にては候べからず。『王舎城事』平成新編御書九七四頁
   
意訳
 御祈念が叶えられないのは、弓は固い者の弦が緩く、
立派な太刀、剣をもちながら使う人が臆病であるのと同じである。法華経(南無妙法蓮華経の御本尊)への信仰が弱いのを棚に上げて、法華経のせいにしてはならない。 (8月)
 
 末代の悪人等の成仏不成仏は、罪の軽重に依らず、但(ただ)此の経の信不信に(の、は間違いです。)任すべし。『南部六郎三郎殿御返事』平成新編御書六八四頁

 〈意訳 末法の悪人等の成仏、不成仏は、罪の軽いか重いかによるのではなく、ただ、この法華経(御本尊)への信心があるかないかによって決まるのである。
(7月)
 この曼荼羅能(よ)く能(よ)く信ぜさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は獅子吼(く)の如しいかなる病さは(障)りをなすべきや。『経王殿御返事』平成新編御書六八五頁

意訳 この御本尊をよくよく信じられよ。南無妙法蓮華経は獅子のほえるようなものであり、いかなる病気も障害をなすことはできないのである。末法の悪人等の成仏、不成仏は、罪の軽いか重いかによるのではなく、ただ、この法華経(御本尊)への信心があるかないかによって決まるのである。
 (6月)
 仏智の及ばぬ事何かあるべき、なれども法華の題名(だいみょう)受持の功徳ばかりは是を知らずと宣(の)べたり。法華一部の功徳は只(ただ)妙法等(とう)の五字の内(うち)に籠(こも)れり。 『聖愚問答抄』 平成新編御書四〇七頁

 〈意訳〉 仏の智恵の及ばないものはない。けれども法華経の題名(南無妙法蓮華経)を受持する功徳ばかりは、その大きさを知らないと述べている。法華経一部の功徳は、ただ妙法蓮華経の内におさまっているのである。 (5月)

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。仏種は縁に従って起こる、是の故に一乗を説くなるべし。『米穀御書』 平成新編御書一二四二頁

意訳 其の国の仏法流布は、あなたにお任せする。仏種は縁によって起こるものである。この故に一乗の法である法華経を説くのである。(4月)
 忠言(ちゅうげん)は耳に逆らひ良薬は口に苦しとは先賢(せんけん)の言(ことば) なり。やせ病の者は命をきらう、佞人(ねいじん)は諌(いさ)めを用いずと申すな り。 『八幡宮(はちまんぐう)造営事(ぞうえいのこと) 平成新編御書一五五六頁

意訳 忠告する言葉は耳に逆らい(なかなか聞き入れられない)、 良い薬は口に苦いとは、むかしの賢人の言葉である。病身の者は、生きることを きらう(苦しみに耐えられず死んだ方がよいと思う)、心の曲がった人は、人の いさめを用いないといわれている。(3月)
 蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。『崇峻天皇御書 平成新編御書一一七三頁
 
意訳 蔵に蓄える財(財産)よりも身の財(健康や身に備わる才能、技芸)の方がすぐれ、身の財より心の財(正しい信心、人格、人間性)が第一にすぐれている。 この御文を御覧になってからは心の財を積むようにしなさい。(2月)
 法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔より()かず()ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫(ぼんぷ)となる事を。 『妙一尼(みょういちあま)御前御返事』 平成新編御書八三二頁)

 〈意訳 法華経の信心をしている人は、冬のような厳しい状態に置かれることになる。しかし、冬の次には必ず春が来る。昔から今に至るまで、冬が秋に戻る、などということは、聞いたことも見たこともない。それと同じように、法華経を信仰している人は必ず仏になることが出来るのである。不幸な凡夫に逆戻りする、などということはありえない。(平成23年1月)
 (平成22年12月)水は寒(さむさ)積(つ)もれば水となる。雪は年(とし)累(かさ)なって水精(すいしょう)となる。悪積もれば地獄となる。善(ぜん)積もれば仏となる。 『南条殿女房御返事』 平成新編御書一二二七頁

〈通解〉 水は寒さが積もれば氷となる。雪は月日を重ねて水晶となる。悪が積もれば地獄となる。善が積もれば仏となる。※「古代中国では、水晶は千年を経た老氷や雪が化したものと考えられていた」
 いかなる事ありとも、すこしもたゆむ()事なかれ。いよいよはりあげてせむ()べし。たとい命に及ぶとも、すこしもひる()事なかれ。 兵衛栄殿(ひょうえさかん)御返事』 平成新編御書一一六六頁

〈通解〉 どんなことがあっても、少しも信心を弛めてはなりません。いよいよ声を張り上げて、(父上の信じている教えの間違いを)責めなさい。
 例え命に及ぶことが起ころうとも、少しでも怯んではなりません。(11月)
 悪の中の大悪は我が身にその苦をうくるのみならず、子と孫と末七代もでかゝり候ひけるなり。善の中の大善も又々かくのごとし。 『盂蘭盆御書』  平成新編御書一三七七頁

〈通解〉 悪の中でも大悪とは、自分自身がその報いを受けるだけでなく、子供や孫さらには七代先まで苦しむことになる。善の中でも大善は、同じように(自分だけでなく末七代の眷属まで功徳が及ぶであろう。)(10月)
 敵はねらうらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か。是につけても能く能く御信心あるべし。 『四条金吾殿御返事』  平成新編御書一二九二頁

〈通解〉 敵は狙っているのだろうが、あなたの法華経への信心が強盛であるので、大難も、事の起こる前に消えたのであろうか。これにつけても、よくよく信心に励ん でいきなさい。(9月) 
 正法を弘めん者、経教の義を悪しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば、仏法の中の敵なり。 『聖愚問答抄下』 平成新編御書四〇四頁

〈通解〉 邪義邪教の者たちが、誤った教えをいろいろ説いているのを見ていながら、聞いていながら、自分自身も折伏せず、そしてさらに、もし自分の力が足りなければ、国主に申し上げてでもこれを退治しないのであれば、それは「仏法の中の敵」になる
(8月)
 法華経は草木を仏となし給ふ。いわうや心あらん人をや。法華経はの焼種(しょうしゅ)二乗を仏となし給ふ。いわうや生種(しょうしゅ)の人をや。法華経は一闡提(いっせんだい)を仏となし給ふ。いわうや信ずるものをや。 『上野殿御返事』 平成新編御書一三八〇頁

〈通解〉  法華経は草木でさえ成仏させることが出来ます。心のある人間なら言うまでもありません。法華経は仏になる種が燃えてしまい成仏不可能される、声聞・縁覚のひとでさえ成仏させることが出来ます。ましてや、仏になる種をもっている人なら言うまでもありません。法華経は仏法を信じず誹謗する者(堕地獄確定者)でさえ成仏させられるのです。ましてや信じている人なら言うまでもありません (7月)
 父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給ひて候。 『刑部左衛門尉女房御返事』  平成新編御書一五〇六頁

〈通解〉 父母に御孝養を尽くす気持ちのある人々は、法華経を贈りなさい。教主釈尊は、父母の御孝養をされるとき、法華経の功徳を贈られているからである。(6月)
 たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の(ともしび)は消えやすし。無益(むやく)の事には財宝を()くすに()しからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をもの()()く思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきを()ふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。 『新池御書』  平成新編御書一四五七頁


〈通解〉
たまたま人間に生まれた時には、名聞名利の風が激しく、仏道修行のは消えやすいものである。無益ことには財宝を使い果たしても惜しく思わないのであるが、仏法僧に少しの供養をすることをいやがることはただ事ではない。地獄の使が勇(いさ)み立っているのである。寸善尺魔というのはこれである。(5月)

 瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏(みようぶく)して現はれざれども委細(いさい)に之を尋(たず)ぬれば之有るべし。 『観心本尊抄』 平成新編御書六四七頁

〈通解〉 瞋(いか)るは地獄界、貧(むさぼ)るは餓鬼界、癡(おろ)かは畜生界、諂曲(てんごく)なのは修羅界、喜ぶは天界、平らかなるは人界である。このように他人の相(そう)には六道(ろくどう)がすべてそなわっている。四聖は冥伏(みようぶく)していて現はれないけれども、くわしく探し求めるならば、必ずそなわっているのである。つも退せず信ずることである。
(4月) 
 (そもそも)今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへ()()つばかりをも()へども、とをざかりぬれば()つる心あり。水のごとくと申すはいつもたい(退)せず信ずるなり。  『上野殿御返事』 平成新編御書一二〇六頁

〈通解〉 今の時、法華経を信ずる人の中に、或は火のごとく信ずる人もいる。
或は水のように信ずる人もいる。火のような信心というのは、聴聞した時には燃え立つ、時がたつと退退転の心・捨てる心が起こってくるのである。水のような信心とは、いつも退せず信ずることである。(3月)
 (しん)(みち)(みなもと)功徳(くどく)(はは)()へり。菩薩(ぼさつ)五十二(ごじゅうに)()には(じゅ)(しん)(もと)()(もろもろ)悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)不信(ふしん)(もと)() す。『念仏無間地獄抄(ねんぶつむけんじごくしょう) 平成新編御書三十八頁

〈通解〉 信は仏道の根源であり、功徳を生ずる母であるという。菩薩の修行の位(くらい)である五十二位においては、十信を本とし、十信の位では、信心をはじめとしている。また、もろもろの悪業や煩悩は不信を本とするのである。
(2月) 
 悪知識と申すは甘くかたらひ(いつわ)()(ことば)(たく)みにして愚癡(ぐち)の人の心を取って善心を破るといふ事なり。 『唱法華題目抄』 平成新編御書二二四頁

〈意訳〉 悪知識というのは、甘い言葉で語りかけ、いつわり、こび、言葉巧みに、愚かな人の心を取って、善心を破るということである。(平成22年1月)
法華経を余人の()み候は、口ばかりことば()ばかりは)めども心は()まず、心は()めども身に()まず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。『土籠御書平成新編御書四八三頁

〈通解〉法華経を他の人が読む場合においては、口先ばかり、単なる言葉はかりとしては読むけれど、心では読んでいない。たとえ心では読んでいても、自分のみにあてはめて読んでいない。色心の二法にわたって法華経を読まれたことこ最も貴いのである。(平成21年12月)
(すべ)て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。(よろい)を著たる兵者(つわもの)は多けれども、(いくさ)に恐れをなさゞるは少なきが如し。『松野殿御返事』平成新編御書一〇四九頁

〈通解〉すべて凡夫の菩提心(悟りを求める心)は悪縁にたぼらかされることが多く、事にふれて移りやすいものです。鎧を着た兵士は大勢いるが、戦いになったとき恐れないものは少ないようなものであります。(11月)
(それ)人身を()くる事はまれなり。(すで)にまれなる人身をうけたり。又あひがた(値難)き仏法、是又あへり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり。『寂日房御書平成新編御書一三九三頁

〈通解〉人間として生まれてくることは希である。すでにその希である人身を受けているのであり、そのうえにまた、あいがたき仏法ににもあったのである。その同じ仏法の中にも、法華経の題目に巡りあうことができて、ついに題目の行者となった。あなたはまことに過去世に十万億の」諸仏を供養した宿縁深厚の人である。(10月)
 
しを()()ると()つと、月の出づるといると、夏と秋と、冬と春とのさかひには必ず相違する事あり。凡夫の仏にな又かくのごとし。必ず三障四魔と申す(さわ) りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。 『兵衛志殿御返事 平成新編御書一一八四頁

〈通解〉
潮が干るときと満るときと、夏・秋・冬・春の四季の変わり目には、必ずそれまでとは違いが表れるものである。凡夫が仏になるときも又これと同じで、必ず三障四魔という障害が起こってくるのであり、このような障魔が現れてきたとき、賢者は喜び、愚者はおそれて退くのである(9月)
(およ)そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是程の理をば何なる人なりとも知るべきなり。『星名五郎太郎殿御返事』平成新編御書三六四頁

 〈通解〉
およそ仏法というのは、善人、悪人をえらばず、すべての人を成仏させることのできる教えを最第一に定めるべきである。。これほどの道理はいかなる人であっても知るべきことなのである。(8月) 
不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり其の子となるも必ず宿習なり。『寂日房御書 平成新編御書一三九三頁

〈通解〉このような日蓮を生んだ父母は日本国の全ての人々の中にあっては、大果報の 人です。父親となり母親となる、子供として生まれる、このことは過去世におい て積んだ善悪の行いによって定められたものです。(7月)

今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚(くどくじゅ)(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空(こくう)にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。(いよいよ)はげむべし、はげむべし。 『四条金吾殿御返事』  平成新編御書一五〇二頁

〈通解〉今この所(法華経の行者の所住の地。大聖人当時の身延山、現在は総本山大石寺)も、珠玉の多い蓬莱山(ほうらいさん)栴檀(せんだん)の生ずる摩黎山(まりせん)などと同じように、仏菩薩が住まわれている功徳の聚(あつま)った国土である。法華経を読誦して多くの月日を送り、読誦した法華経の功徳は虚空(こくう)に満ちているであろう。それを毎年たびたびの御参詣によって、無始の罪障も定めて今生一世に消滅するであろう。いよいよ励んでいきなさい。 (6月)
日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、(なお)(たと)へにあらず。か()こきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし。 妙法尼御前御返事 平成新編御書三十八頁


〈通解〉私日蓮は、幼少の時から仏法を学んできたが、念願したことは「人の寿命は無 常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露というのは単なる譬え ではない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるかわからな いのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習お う」というものである。 7月 『寂日房御書』  不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり 。父母となり其の子となるも必ず宿習なり。(5月) 
像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。 三大秘法稟承事 平成新編御書一五九四〜五頁

〈通解〉南岳大師や天台大師が「南無妙法蓮華経」と法華経の題目を唱えましたが、自 らの修行を目的とした題目であり、人々を教化する「化他」の題目ではありませ んでした。これは理行なのです。それに対し、日蓮が末法に唱える題目は前代と は違った題目です。どのように違うかといえば、自行と化他とが共に具わった題 目なのです。自らが成仏するためだけではなく、周りの人々の成仏も同時に実現 することの出来る南無妙法蓮華経の題目なのです。(4月)
 
教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の(あいだ)は諸仏入定(にゅうじょう)(ところ)なり、舌の上は転法輪の所(のんど)は誕生の処、口中(こうちゅう)正覚(しょうがく)(みぎり)なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。 『南条殿御返事』 平成新編御書一五六九頁

〈通解〉教主釈尊の一大事の秘法(本門の本尊)として霊鷲山にて相伝し、日蓮の肉団の胸中に秘して隠し持っている。であれば日蓮が胸の
は諸仏入定であり、舌の上は諸仏が法論を転ずる所、(のど)は誕生の処、口中正覚の悟りを開く場所である。このようなう思慮を絶した尊い法華経の行者が住むところであるので、どうして霊山浄土に劣ろうか(3月)
三十三のやく()は転じて三十三のさいは()ひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。年はわか()うなり、福はかさ()なり候べし。 『四条金吾殿女房御返事』 平成新編御書七五七頁

〈通解〉三十三の厄(やく)はかえって三十三の福となるでありましょう。 「七難即滅・七福即生」というのはこのことです。年は若くなり、福運は重なっ ていくことでしょう。(2月)
正月の一日は日のはじめ、月の始め、とし()のはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさして()つがごとく、日の東より西へわたりてあき()らかなるがごとく、とくもまさり人にもあい()せられ候なり。『十字御書平成新編御書一五五一頁

〈通解〉正月の一日は日の始めであり、月の始めであり、年の始めであり、そして春の 始めであります。これを正法をもって祝う人は、月が(その出る位置が)西から 東に向かうにしたがって満ちるように、また日が東から西へ渡って行くにしたが って明らかになるように、徳も勝り、また人々にも愛されるのです。 2月 『四条金吾殿女房御返事』  三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生 とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候べし。(平成21年1月)
世間・出世善き者は乏しく、悪き者は多き事眼前なり。然れば何ぞ(あなが)ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少(さしょう)なり。汝只正理を以て(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。『 聖愚問答抄 』平成新編御書 四〇二頁


〈通解〉世間のうえからも出世間のうえからも、善人は少なく、悪人が多いことは、目に見えて明らかである。そうであるならば、どうして信じている数が少ないことを卑しみ、多いことを価値あるものだとするのか。土砂は多いけれども、米穀は稀である。木の皮はたくさんあるが、布絹はわずかである。あなたは、ただ正しい道理を第一とすべきであり、別して信じている人数が多いかどうかを判断基準にしてはならない。平成20年12月

心は日蓮に同意なれども身は別なれば、()同罪(どうざい)のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ(まい)らせけるこそありがたく候へ。今は御用ひなくもあれ、殿の御(とが)(のが)れ給ひぬ。『主君耳入此法門免与同罪事』平成新編御書七四四頁

〈通解〉あなたは、心は私(日蓮)に同意していても、身体(からだ)は謗法の主君に(つか)える身であるため、与同罪からは(のが)れられない立場にあった。しかし、主君に対してこの法華経の法門を説いて聞かせたことは、まことに尊いことである。主君は今は信心をしなくても、主君を折伏したことにより、あなたは与同罪を(まぬが)れることができたのである。(11月
法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。『最蓮房御返事』平成新編御書六四二頁

〈通解〉法華経の行者は、信心に退転なく身に(いつわ)りの親しみなく、すべてを法華経にその身を任せて金言のとおりするならば、慥かに後生は言うに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得て、広宣流布の大願も成就することであろう。(10月
願はくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を(まい) らせん。『顕仏未来記』平成新編御書六七八頁

〈通解〉ただひたすら願うことは、私を迫害し損(そこ)なおうとする国主たち
をまず最初に導こうということである。私を支(ささ)えてくれる弟子たちのことを、まず釈尊に申し上げよう。私を産(う)んで下さった両親た
ちには、まだ生きているうちにこの大善の功徳を差し上げたい。9月
わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。(中略) 法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体にかげの()うがごとくわざわい来たるべし。法華経を信ずる人はせんだんにかを()ばしさのそなえたるがごとし。『十字御書』平成新編御書一五五一頁

〈通解〉災いは口より出でて自分の身を破る。幸いは心より出でて我を飾る。(中略) 今また法華経を信ずる人は、幸いを万里の外より招き集めるであろう。影は体より生じているように、法華経を敵とする人の国は、体に影が添うように災いが現れるであろう。これに対して法華経を信ずる人は、最上の香木である栴檀(せんだん)が極上の薫香(くんこう)を具(そな)えているように、幸福の果報が顕(あらわ)れるであろう。8月) 
願はくは「現世安穏後生善処(げんせあんのんごしょうぜんしょ)」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引(ろういん)なるべけれ。(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも(すす)めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。持妙法華問答抄平成新編御書三〇〇頁

〈通解〉 願わくは「現世は安穏であり、後世には善処に生まれる」と仰せの妙法を持つことのみが、今生の真の名聞であり、後世の成仏への手引きとなるのである。すべて心を一つにして、南無妙法蓮華経と我も唱え、人にも勧めることが、人間としての今生の思い出なのである。(7月
 

云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていまし()めざる事、眼耳の二徳(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして(いつわ)り親しむは即ち(これ)彼が怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。阿仏房尼御前御返事 平成新編御書九〇六頁

〈通解〉 折伏をすることによって過去遠々刧の罪障を消滅することができるものを、謗法の者を見たり聞いたりしているにもかかわらず、自分の判断で誡めないのは、自分自身の眼耳の二徳も破れ、また相手に対しても大無慈悲となる。章安大師は、「慈悲の心なく、謗法の者に話しもせず、うわべだけ付き合う事は、かえって怨となってしまう」等、仰せである。これは重罪であり、この罪は消えがたいのである。(6月 

此の経を()()くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来れども「憶持不忘(おくじふもう)」の人は(まれ)なるなり。受くるはやす()く、持つはかた()し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に()ふべしと心得て持つなり。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書七七五頁

〈通解〉 この経(法華経)を聞いて信じる人は多い。しかし、大難が来た時に、聞き受けた通りに心に銘記して忘れない人はまれである。「受ける」ことはやさしく、「持つ」ことは難しい。しかるに、成仏は持ち続けることにある。5月) 
今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生(りしょう)(とく)(やく)有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に(たも)ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり。『御講聞書』平成新編御書七七五頁

〈通解〉現在、末法は、南無妙法蓮華経の五字・七字の題目を弘めることによって、すべての衆生が成仏の大利益を得るべき時代である。そうであるから、成仏のための正行(しょうぎょう)である南無妙法蓮華経に、他の教法や修行を雑えるのはまちがいである。この南無妙法蓮華経の大曼荼羅御本尊を受持し、身口意(しんくい)の三業(さんごう)をもって、心で念じ口で唱え、全身で信心修行申し上げていく時なのである。(4月) 
汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無くんば身は(これ)安全にして、心は是禅定ならん。此の(ことば)此の(こと)信ずべく(あが)むべし。立正安国論』 平成新編御書二五〇頁

〈通解〉貴方は一刻も早く邪法に対する信仰の心を改めて、速やかに最高の大善である実大乗の法華経に帰依しなさい。そうすれば迷いの多いこの世界は皆仏国土となるのである。仏国土がどうして衰えることがあろうか。仏国土の全体はすべて宝の国土である。この宝の国土がどうして壊れようか。国土に衰退や破壊がなければその処に居住する人々の身は安全であり心は平安である。この言葉を信ずるべきであり、崇めるべきである。
平成20年3月