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日蓮大聖人

御報恩御講拝読御書
平成26年~令和2年
                                                20年~25 | 26~R2
 令和二年四月度 三大(さんだい)秘法(ひほう)稟承(ぼんじょう)の事(こと)弘安五年四月八日 六十一歳
題目(だいもく)とは二意(にい)()り。所謂(いわゆる)正像(しょうぞう)と末法(まっぽう)となり。正像(しょうぞう)には天親菩薩(てんじんぼさつ)・竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
題目(だいもく)を唱(とな)えさせ給(たま)いしかども、自行(じぎょう)ばかりにして唱(とな)へてさて止()みぬ。
像法(ぞうほう)には南岳(なんがく)・天台等(てんだいとう)は南無妙法蓮華経と唱(とな)へ給(たま)いて、自行(じぎょう)の為(ため)にして広(ひろ)く化他(けた)
(ため)に説()かず。是(これ)理行(りぎょう)の題目(だもく)なり。末法(まっぽう)に入()って今(いま)日蓮(にちれんが)が唱(とな)ふる所(ところ)の題目(だいもく)は前代(ぜんだい)に異(こと)なり、自行(じぎょう)化他(けた)に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり 
 (御書一五九四ページ一六行目~一五九五一行目)
令和二年三月度   新池御書(にいけごしょ) 弘安三年十二月 五十九歳
雪山
(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)は寒苦(かんく)にせめられて、夜明(よあ)けなば栖(す)つくらんと鳴(な)くといえども、日(ひ)(い)でぬれば朝日(あさひ)のあたゝかなるに眠(ねむ)り忘(わす)れて、又(また)(す)をつくらずして一生(いっしょう)(むな)しく鳴(な)くことをう。一切衆生(いっさいしゅじょう)も亦(また)(また)(か)くの如(ごと)し。地獄(じごく)に堕(お)ちて炎(ほのお)にむせぶ時(とき)は、願(ねが)わくは今度(こんど)人間(にんげん)に生(うま)まれて諸事(しょじ)を閣(さしお)いて三宝(さんぽう)を供養(くよう)し、後世(ごせ)菩提(ぼだい)をたすからんと願(ねが)へども、たまたま人間(にんげん)に来(きた)る時(とき)は、名聞(みょうもん)名利(みょうり)の風(かぜ)はげしく、仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)の灯(ひ)は消(き)えやすし。
 
 (御書一四五七ページ一四行目~一八行目)
  令和二年二月度 
日女御前御返事(にちにょごぜんごへんじ)
弘安元年六月二十五日 五十七歳 
黄河
(こうが)は千年(せんねん)
に一度(いちど)すむといへり。聖人(せいじん)は千年(せんねん)に一度(いちど)出(い)づるなり。仏(ほとけ)無量劫(むりょうこう)に一度(いちど)出世(しゅっせ)し給(たま)ふ。彼(かれ)には値(あ)ふといえども法華経(ほけきょう)には値(あ)ひがたし。設(たと)ひ法華経(ほけきょう)に値(あ)ひ奉(たてまつ)るとも、末代(まつだい)凡夫(ぼんぶ)法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)には値(あ)ひがたし。説(たと)ひ法華経(ほけきょう)に値(あ)ひ奉(たてまつ)るとも、末代(まつだい)の凡夫(ぼんぶ)法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)には値(あ)ひがたし。

  
(御書一二三二ページ一一行目~一三行目)
令和二年一月度 
最蓮房御返事
(さいれんぼうごへんじ)
文永十年一月二十八日  五十二歳
 法華経(ほけきょう)行者(ぎょうじゃ)信心(しんじん)退転
()()詐親(さしん)()く、一切法華経(いっさいほけきょう)()()(まか)せて金言(きんげん)(ごと)修行(しゅぎょう)せば、(たし)かに後生(ごしょう)(もう)すに(およ)ばず、今生(こんじょう)息災延命(そくさいえんめい)にして勝妙(しょうみょう)大果報(だいかほう)()広宣流布(こうせんるふ)大願(だいがん)をも成就(じょうじゅ)すべきなり。
  (御書六四二ページ六行目~八行目)

 令和元年十二月度 
 四条(しじょう)金吾(きんご)殿(どの)御返事(ごへんじ)文永九年 五十一歳
 法華経(ほけきょう) 云(い)はく「若(も)し善(ぜん)男(なん)子(し)善(ぜん)女(にょ)人(にん)、我(わ)が滅(めつ)度(ど)の後(のち)に能(よ)く竊(ひそ)かに一人(いちにん)の為(ため)にも法華経(ほけきょう)の乃(ない)至(し)一(いっ)句(く)を説(と)かん。当(まさ)に知(し)るべし 是(こ)の人(ひと)は如来(にょらい)の使(つか)ひ如来(にょらい)の所遣(しょけん)として如来(にょらい)の 事(じ)を行(ぎょう)ずるなり」等云云。法華経(ほけきょう)を一(いち) 字(じ)一(いっ) 句(く)も唱(とな)へ、又(また)人(ひと)にも語(かた)り申(もう)さんものは教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)の御(おん)使(つか)ひなり。(御書六二〇㌻二行目~四行目)

令和元年十一月度 
兵衛ひょうえ志殿さかんどのご返(へん)事(じ ) 建治三年十一月二十日 五十六歳
 しお(潮)のひ(干)るとみつ(満)と、月(つき)の出(い)づるといると、
なつあきと、ふゆはるとのさかいにはかなら相違そういすることあり。
凡夫ぼんぶほとけになるまたかくのごとし。かなら三障四魔さんしょうしまもうさわりいできたれば、賢者けんじゃはよろこび、愚者ぐしゃ退しりぞくこれなり。
     (御書一一八四ページ一行目~三行目)
 平成三十年十月度 
   
種々(しゅじゅ)()(ふる)(まい)()(しょ)健治二年 五十五歳
 
(ぶつ)(めつ)()()(せん)二百(にひゃく)二十(にじゅう)()(ねん)(あいだ)迦葉(かしょう)()(なん)(とう)馬鳴(めみょう)竜樹等(りゅうじゅとう)南岳(なんがく)天台等(てんだいとう)妙楽(みょうらく)伝教等(でんぎょうとう)だにもいまだひろめ(たま)わぬ法華経(ほけきょう)肝心(かんじん)諸仏(しょぶつ)眼目(げんもく)たる妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)五字(ごじ)末法(まっぽう)(はじ)めに一閻浮提(いちえんぶだい)にひろませ(はじめ)ふべき瑞相(ずいそう)日蓮(にちれん)さきがけしたり。わたうども二陣三陣(にじんさんじん)つゞきて、迦葉(かしょう)阿南(あなん)にも(すぐ)れ、天台(てんだい)伝教(でんぎょう)にもこへよかし。  (御書一〇五七ページ一行目~三二二㌻~三行目)
  令和元年九月度
生死
(しょうじ)一大事(いちだいじ)血脈抄(けつみゃくしょう)
文永九年二月十一日  五十一歳 (そう)じて日蓮(にちれん)がでし弟子(でし)(だん)()(とう)自他(じた)()()(こころ)なく、水魚(すいぎょ)(おも)ひを ()して異体同心(いたいどうしん)にして南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)(となへ)(たてまつ)(ところ)を、生死(しょうじ)一大事(いちだいじ)血脈(けつみゃく)とは()ふなり。(しかも)(いま)
日蓮(にちれん)弘通(ぐつう)する(ところ)所詮(しょせん)(これ)なり。
()(しか)らば広宣流布(こうせんるふ)大願(たいがん)(かな)ふべき(もの)か。(あまつさ)日蓮(にちれん)弟子(でし)(なか)異体異心(いたいいしん)(もの)(これ)()れば、(れい)せば城者(じょうしゃ)として(しろ)(やぶ)るが(ごと)し。(御書五一四㌻五行目~七行目)
 令和元年八月度 
上(うえ)野(の )尼(あま)御(ご )前(ぜん)御(ご )返(へん)事(じ ) 弘安三年十一月十五日 五十九歳
 法華(ほけ)経(きょう)と申(もう)すは手(て )に取(と )れば其(そ )の手(て )やがて仏に(ほとけ)成(な )り、口(くち)に唱(とな)ふれば其(そ )の口(くち)即(すなわ)ち仏な(ほとけ)り。譬(たと)へば天(てん)月(げつ)の東の(ひがし)山(やま)の端(は )に出(い )づれば、其(そ )の時(とき)即(すなわ)ち水(みず)に影(かげ)の浮(う )かぶが如(ごと)く、音(おと)とひゞきとの同(どう)時(じ )なるが如(ごと)し。故(ゆえ)に経に(きょう)云(い )はく「若(も )し法(ほう)を聞(き )くこと有(あ )らん者(もの)は一と(ひとり)して成仏(じょうぶつ)せずといふこと無(な )けん」云(うん)云(ぬん)。
文(もん)の心は(こころ)此(こ )の経を(きょう)持(たも)つ人(ひと)は百人は(ひゃくにん)百人(ひゃくにん)ながら、千(せん)人(にん)は千(せん)人(にん)ながら、一人(いちにん)もかけず仏に(ほとけ)成(な )ると申(もう)す文(もん)なり。
(御書一五七四㌻七行目~一〇行目)
 令和元年七月度
立 正(りっしょう)安 国 論(あんこくろん) 文応元年七月十六日 三十九歳
汝(なんじ)須(すべから)く一身(いっしん)の安(あん)堵(ど )を思(おも)はゞ先(ま )づ四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を禱(いの)るべ
きものか。就中(なかんずく)人(ひと)の世(よ )に在(あ )るや各(おのおの)後生(ごしょう)を恐(おそ)る。是(ここ)を以(もっ)て或は(あるい)邪教(じゃきょう)を信(しん)じ、或は(あるい)謗法(ほうぼう)を貴ぶ(たっと)。各(おのおの)是非(ぜひ)に迷(まよ)ふことを悪(にく)むと雖も(いえど)、而(しか)も猶(なお)仏法(ぶっぽう)に帰(き )することを哀(かな)しむ。何(なん)ぞ同(おな)じく信心(しんじん)の力を(ちから)以(もっ)て妄(みだ)りに邪(じゃ)義(ぎ )の詞を(ことば)宗(あが)めんや。(御書249㌻7行目~9行目)
 令和元年七月度 
 開目抄 文永九年二月  五十一歳
 
(われ)(なら)びに()弟子(でし)諸難(しょなん)ありとも(うたが)(こころ)なくば、自然(じねん)仏界(ぶっかい)にいたるべし。(てん)加護(かご)なき(こと)(うたが)はざれ。現世(げんぜ)安穏(あんのん)ならざる(こと)をなげかざれ。()弟子(でし)朝夕(ちょうせき)(おし)へしかどもうたが、(うたが)ひををこして(みな)すてけん。 つた()なきもの(もの)のならひは、約束(やくそく)せし(こと)をまことの(とき)はわするゝなるべし。 (御書五七四㌻一二行目~一四行目)
 令和元年年五月度
松野殿御返事
 建治二年十二月九日  五十五歳
魚(うお)の子(こ)は多(おお)けれども魚(うお)となるは少(すく)なく、菴(あん)羅(ら)樹(じゅ)の花(はな)は多(おお)くさけども菓(このみ)になるは少(すく)なし。人(ひと)も又(また)此(か)くの如(ごと)し。菩(ぼ)提(だい)心(しん)を発(お)こす人(ひと)は多(おお)けれども退(たい)せずして実(このみ)の道(みち)に入(いる)る者(もの)は少(すく)なし。都(すべ)て凡夫(ぼんぶ)の 菩提心(ぼだいしん)は多(おお)く悪縁(あくえん)にたぼらかされ、事(こと)にふれて移(うつ)りやすき物(もの)なり。鎧(よろい)をき 著(き)たる兵者(つわもの)は多(おお)けれどもいくさ、戦(いくさ)に恐(おそ)れをなさゞるは少(すく)なきが如(ごと)し。(御書一〇四八㌻一七行目~一〇四九㌻二行目)  
 平成三十一年四月度
如来(にょらい)滅後(めつご)五五(ごご)百歳(ひゃくさいに)(はじむ)観心(かんじんの)本尊抄(ほんぞんしょう)(御書661頁17行)
 
天台(てんだい)()はく「(あめ)(たけ)きを()(りゅう)(だい)なるを()り、(はな)(さか)んなるを()(いけ)(ふか)きを()る」等云云。妙楽(みょうらく)()はく「智人(ちにん)()()(じゃ)(おのずか)(じゃ)()る」等云云。天晴(てんは)れぬれば地明(ちあき)らかなり、法華(ほっけ)()(もの)世法(せほう)()べきか。一念三千(いちねんさんぜん)()らざる(もの)には(ほとけ)大慈悲(だいじひ)()こし、五字(ごじ)(うち)()(たま)(つつ)み、末代幼稚(まつだいようち)(くび)()けさしめたまふ。
 平成三十一年三月度
 妙一尼御前御消息 建治元年五月 五十四歳
 法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりき(聞)かずみ(見)ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡(ぼん)夫(ぶ)となる事を。経文には「若有(にゃくう)聞法者(もんぽうしゃ)無(む)一(いち)不成仏(ふじょうぶつ)」ととかれて候。(御書八三二㌻一二行目~一四行目)
平成三十一年二月度 
南条兵衛七郎殿御書 文永元年十二月十三日 四十三歳
 いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたき(敵)をだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につか(仕)ふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をし(知)りながら奏(そう)しもせず、私にもあだ(怨)まずば、奉公皆う(失)せて還(かえ)ってとが(咎)に行なはれんが如し。当世の人々は謗法の者と し(知)ろしめすべし
     (御書三二二㌻一八行目~三二三㌻三行目)
  平成三十一年一月度
 諸法実相抄文永十年五月十七日 五十二歳
 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経妙と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた(伝)ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経妙と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。
          (御書六六六㌻一七行目~六六七頁~一行目
 平成三十年十二月度
 法華初心成仏抄弘安元年五十七歳
 当世の人何となくとも法華経に背く失に依り、地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。
            (御書一三一六㌻四行目~七行目)  
  平成三十年十一月度
兄 弟 抄 建治二年 五五歳
 此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。
    (御書九八六㌻八行目~一一行目  
平成三十年十月度 
聖 愚 問 答 抄文永五年 四十七歳
 今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり(中略)今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛す(こうじょう)る国か勘ふ(かんが)べし。
   (御書四〇三㌻一二行目~一五行目)
 平成三十年九月度      
異体同心事 弘安二年八月 五十八歳
 異体同心なれば万事を成(じょう)じ、異体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候(中略)日本国の人々は多人なれども、異体異心なれば諸事叶う事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々少なく候へども大事成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。
               (御書一三八九㌻一二行目~一三九〇㌻二行目)
 平成三十年八月度 
  開目抄 文応九年二月  五十一歳
 摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏を笑う、折伏の者は摂受をかなしむ。無知・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品のごとし。邪知謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品の如し。
                   (御書五七五㌻一五行目~一七行目)  
  平成三十年七月度 
 立正安国論 文応元年七月十六日 三十九歳

 広く衆経を
(ひら)きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、 皆正法の(しょうぼう)門(もん)を出でて深く邪法の(ごく)に入る。愚かなるかな(おのおの)悪教の綱に(か)かりて鎮(とこしなえ)に謗教の網に纏(まつ)はる。此の朦(もう)霧(む)の迷ひ彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。豈愁(うれ)へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。      
           (御書二五〇㌻二行目~四行目)

  平成三十年六月度
 持妙法華問答抄弘長三年 四十二歳
 寂光の都ならずば、
(いず)くも皆苦なるべし。本覚の(すみか)を離れて何事か楽しみなるべき。願わくは「現世安穏(げんせあんのん)後生善処(ごしょうぜんしょ)」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引(ろういん)なるべけれ。(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え、他をも(すす)めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき。
            (御書三〇〇㌻七行目~九行目)
  平成三十年五月度  
諸法実相抄 文永十年五月十七日 五十二歳
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あいかまえへて、あいかまえへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむ(蒙)らせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。
             (御書六六七㌻一八行目~六六八㌻三行目)
  平成三十年四月度  
  報恩抄 建治二年七月二十一日 五十五歳

 日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功には及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。
            (御書一〇三六㌻一四行目~一七行目)                                     
末法の正法とは南無妙法蓮華経である。この題目の五字は一切衆生をたぼらかす秘法なり。 『御義口伝』 平成新編御書 一七九九頁

〈意訳〉 末法の正法とは南無妙法蓮華経である。この題目の五字は、一切衆生を成仏に導く秘法である。
*【たぼらかすーには、とき磨く→立派に成仏するという意味があり(日達上人御指南)】(2月)
同じ妙法蓮華経の種を心にはらませ給ひなば同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給ふべし 『上野殿母尼御前御返事』 平成新編御書 一五〇九頁
 
〈意訳〉 同じ妙法蓮華経の仏種を心にはらませるならば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれるであろう。 (30年/1月)
毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書 一五〇二頁

〈意訳〉 毎年度々の御参詣によってあなたの無始からの罪障もきっと今生の一世のうちに消滅するであろう。(12月)
 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。 『三大秘法稟承事』 平成新編御書 一五九五頁
〈意訳〉 方便品で釈尊が法華経を「諸仏出世の一大事」と説かれているのは、この三大秘法を含蔵している経だからである。(11月)
人の悦び多々なれば天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の道あり、 人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。『瑞相御書』 平成新編御書 九二〇頁

〈意訳〉 人の悦びが多ければ天には吉瑞が現わし、地には帝釈天の地動瑞が起こる。逆に人々の悪心が盛んになれば、天には不吉な異変を現し、地には不吉な災厄を起こす。(10月)
如何に賤き者なりとも、少し我より勝れて智慧ある人には、此の経のいはれを問い尋ね給ふべし。  『松野殿御返事』 平成新編御書一〇四七頁

〈意訳〉どんなに賎しいい身分の者であっても、仏法に関して少しでも自分より勝れて智慧ある人に対しては、この法華経のこの経のいわれを問い尋ねなさい。(9月)
 人となりて仏教を信ずれば、まず此の父と母との恩を報ずべし。
『上野殿御消息』平成新編御書 九二二頁

〈意訳〉 仏教を信ずるようになれば、まず第一にこの父と母との恩を報ずべきである。(8月)
此れより後もいかなることありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。 『兵衛志御返事殿』 平成新編御書 一一六六頁

〈意訳〉 これから後もどのようなことがあろうとも、少しも信心に油断があってはならない。いよいよはっきりと声に出して謗法を責めなさい。それによってたとい身命が危険にさらされても、少しも怖気づいてはいけないのである。(7月)  
必ず人の敬ふに依って法の貴にあらず。されば仏は依法不依人と定め給へり。  『聖愚問答抄上』 平成新編御書 三八三頁

〈意訳〉 必ずしも人が敬うからといって、その法が貴いというわけではない。されば仏は「法に依って人に依らざれ」と定められたのである。(6月)  
 悪は多けれども一善にかつ事なし。譬えば多くの火あつまれども一水には消ゑぬ。此の一門も又かくのごとし。  『異体同心事』 平成新編御書一三九〇頁

〈意訳〉 悪は多くとも一善に勝つことはない。譬えば多くの火が集まっても一水によって消える。この一門も又同様である。 (5月) 
信心弱くしてかかる目出たき所に行くべからず、行くべからず。 『松野殿御返事』  平成新編御書一〇五二頁

〈意訳〉 信心が弱くては(霊山浄土)のようなめでたいところに行くことが出来ないのである。 (4月)
説(たと)ひ正法を持てる知者ありとも檀那なくんば争(いか)でか弘まるべき。 『四条金御殿御返事』 平成新編御書一〇四一頁

〈意訳〉 たとえ正法を持っている智者(僧侶)がいたとしても、僧侶を外護する信徒がいなければどうして弘まることがあろうか。 (3月)
今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり。これをばしらずして、今の人々善根をすすれば、いよいよ代のほろぶる事出来せり。 『減劫御書』 平成新編御書九二五頁

〈意訳〉 今末代悪世には世間の悪より仏教を信じる事で大悪が生じている。このことを知らずに今の人々は善根を修しているので、いよいよ世が滅びる事態が起きているのである。 (2月)
五節供の次第を案ずるに、妙法華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつりなり。 『秋元殿御返事』 平成新編御書三三四頁

〈意訳〉 五節供の次第を考えると、妙法蓮華経の五字の次第のまつりである。正月は妙の一字のまつりで天照大神を歳の神とする。
*「五節句」とは人日(じんじん)(正月7日)、上巳(じょうし)(3月3日)、端午(たんご)(5月5日)、七夕(しちせき)(7月7日)、重陽(ちょうよう)(9月9日)のと言われる風習で、中国から伝わった考え方に日本の宮中行事などが合わさったもの。 (平成29年1月)
謗(ぼう)と云ふは但(ただ)口を以て誹(そし)り、心を以て謗(そし)るのみ謗には非(あら)ず。法華経流布(るふ)の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。『戒体即身成仏義』 平成新編御書一〇頁

〈意訳〉謗とは口に出して誹謗したり心の中で誹謗することだけではない。法華経を流布すべきこの国に生まれているにもかかわらず、信じず行じないことも謗である。(12月) 
真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は南無妙法蓮華経なり。  『四条金吾殿御返事』平成新編御書一一九四頁

〈意訳〉末法という時代に、一切衆生にとて、心身の(肉体面・心身の障害)を、真実に打ち破り、乗り越える秘術は南無妙法蓮華経なのである。(11月) 
女人となる事は物に随って、ものを随える身なり。夫たのしくば妻もさかうべし。 『兄弟抄』  平成新編御書九八七頁

 〈意訳〉女性という者は物に随って、ものを随える身である。夫(おとこ)が楽しければ妻も栄えることが出来る。(10月) 
其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賎しむるは即ち其の親を賎しむなり 『持妙法華問答抄』 平成新編御書二九八頁

〈意訳〉 その人を毀ることはその法を謗ることである。その子を賎(いや)しめれば、即ち親を賎(いや)しめることである。(9月)
このやまひは仏の御はからいか。そのゆへ浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。 『妙心尼御前御返事』 平成新編御書九〇〇頁

〈意訳〉 この病は仏のおはからいであろうか。その理由は浄名経(維摩経)や涅槃経には病ある人は仏になる、と説かれているからである。病によって仏道を求める心が起こるのである。(8月)
我が弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄(あびごく)の相をげんずべし。其の時我を恨(うら)むべからず。 『顕立正意抄』 平成新編御書七五一頁

〈意訳〉 我が弟子達の中にも信心薄い者は臨終の時に阿鼻地獄の相を現ずるであろう。その時に日蓮を恨んではならない。(7月)
法華経をよむ人の此の経ををば信ずるやうなれども、諸経にても得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。 『報恩抄』  平成新編御書一〇二一頁

〈意訳〉 法華経を読誦する人は一見法華経を信じているように見えるが、法華経以外の爾前の諸経にも得道があると思うのは、法華経を正しく読まない人である。(6月) 
南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす。『日女御前御返事』 平成新編御書一三八八頁

〈意訳〉  南無妙法蓮華経とだけ唱えて、成仏することが最も大切である。(成仏は)ひとえに信心の厚薄によるのである。仏法の根本は、信をもって源とする。(5月)  
食は命をつぎ、衣は身をかくす。食を有情に施すものは長寿の報をまねき、人の食を奪ふものは短命の報をうく。 『法衣抄』 平成新編御書一五六四頁

〈意訳〉 食物は生き物の命をつぎ、衣は身を隠す。食物を有情(感情をもつ一切の動物)に施す者は長寿の果報を得、人の食物を奪う者は短命の報いを受ける。(4月) 
世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。 『聖愚問同抄』平成新編御書三九九頁

〈意訳〉 世の中には四恩(父母・衆生・国主・三宝とせる説)があるが、これを知る者を人倫と名づけ、知らない者を畜生というのである。 (3月)
弥(いよいよ)信心にはげみ給うべし。仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし。 『阿仏房尼御返事』平成新編御書九〇六頁

〈意訳〉 ますます信心を励みなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を男女僧尼必ずにくむであろう。(2月) 
設ひいかなるわずらわしき事ありとも夢になして、只法華経の事のみさはぐらせ給ふべし。 『兄弟抄』平成新編御書九八七頁

〈意訳〉 たとえどのような煩わしい嫌なことがあっても、それらは夢の中の事として、ただ法華経(御本尊)の事だけを思いつづけなさい。(平成28年1月)
但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱え候て、最後臨終の時を見させ給へ。 『松野殿御返事』 平成新編御書一一六九頁

〈意訳〉 在家の身としては、ただ余念(一四誹謗・名聞名利)なく、日に夜に南無妙法蓮華経と唱えて、最後臨終の時を見なさい。 (12月)
この妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来たらざる事なく善根として動かざる事なし 『聖愚問同抄』 平成新編御書四〇八頁

〈意訳〉妙法蓮華経を唯一の正法と信じて修行に励むことにより、受けられない功徳はなく、動かない善根はありません。(11月)
 三世の仏は皆凡夫にてをはせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給ふ。此の故に一切の仏の始めは南無と申す。 『南無御書』 平成新編御書一六七二頁
〈意訳〉 三世十方の諸仏が皆凡夫であられた時、命を法華経に捧げて仏になられたのである。此の故に一切の仏のうえには南無という。(10月)
命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金(こがね)にもすぎたり。 『可延定業御書』平成新編御書七六一頁
〈意訳〉 命というものは一身の第一の珍宝である。たとえ一日であっても寿命をのばすならば千万の金にもまさる。(9月) 
 此の経を経のごとくにと(説)く人に値(あ)ふことが難きにて候。 『兄弟抄』平成新編御書九七九頁
〈意訳〉 この法華経を経に説かれているように正しく説く人に値うのはむつかしいのである。(8月)
法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心に心は報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり。 『上野殿御消息』平成新編御書九二三頁
〈意訳〉 法華経を信仰する人は父と母への恩を報ずることが出来る。自分自身の心には報ずることが出来るとは思わなくとも、この法華経の力によっておのずと恩返しをしているのである。(7月)  
臨終已(すで)に今にありとは知りながら、我慢(がまん)偏執(へんしゅう)名聞(みょうもん)利養(りよう)に著(じゃく)して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下(むげ)にかひなし。 『持妙法華問答抄』 平成新編御書二九九頁 
〈意訳〉 臨終が既に今ある、と知りながら我慢偏執し、名聞利養に執着して妙法を唱えないということは、その志の程が余りにひどくふがいない。(6月)
此の度大願を立て、後生を願わせ給へ。少しも謗法不信のとが候はば、無間大城疑ひなかるべし。 『阿仏房御書』 平成新編御書九〇六頁 
〈意訳〉 この度大願を立て後生を願いなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間地獄に落ちることは疑いないであろう。(5月) 
我人を軽しめば還(かえ)って我が身人に軽易(きょうい)せられん。形状端厳(ぎょうじょうたんごん)をそしれば醜陋(しゅうる)の報いを得人の衣服飲食(おんじき)をうばへば必ず餓鬼(がき)となる。 『佐渡御書』 平成新編御書五八二頁  
〈意訳〉 自分が人を軽しめば、還って人に軽しめる。容姿の端正をそしれば、その報いとして醜く生まれる。人の衣服や食べ物を奪えば必ず餓鬼となる。(4月) 
人の多くおもふにはおそるべからず、又時節の久(く)近(ごん)にも依るべからず、専(もっぱ)ら経文と道理とに依るべし。 『善無畏三蔵抄』 平成新編御書四三八頁
 〈意訳〉 多数の人が思っているからといって恐れてはならない。また教義や宗団の成立が古いとか新しいとかによるべきではなく、
ひたすら経文と道理とによるべきである。(それによって正邪を決すべきである)(3月)
此の文は一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々と起こるなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。 『御義口伝』 平成新編御書一八〇二頁
 〈意訳〉 湧出品には「昼夜に常に精進す、仏道を求むるが為の故なり」と説かれている。此の文は、わが一念に億劫という数え切れない長い間に辛労と苦労を尽くして仏道修行に励んでいくならば、本来自分自身に内在している無作三身の生命が瞬間瞬間湧き起っくるのである。すなわち南無妙法蓮華経と唱えていくことが精進行である。(2月)
未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事。 『日興遺誡置文』 平成新編御書一八八四頁
〈意訳〉
いまだ広宣流布していない時においては、身命を投げ捨てて、精一杯、折伏弘通に励むべきである。(平成27年1月) 
小事たる今生の御いのりの叶はぬを(もっ)てしるべし。大事たる後生叶ふべしや。 『法門申さざるべき様の事』 平成新編御書四三一頁
〈意訳〉 小事である今生の祈りが叶わないことから知りなさい。当然大事である後生の成仏が叶うはずがない。(平成26年12月)
詮ずる所は一 念三千の仏種に非ざれば、有情(うじょう)の成仏・木画(もくえ)二像の本尊は有名無実なり。 『観心本尊抄』 平成新編御書六五二頁
〈意訳〉 結局、法華経の一念三千の仏種でなければ、有情(生きもの)が成仏するということも、非情の本像や画像を本尊とするようなことも、全て言葉のみがあって実態がないことになる。(11月) 
身軽法重(しんきょうほうじゅう)死身弘法(ししんぐほう)とのべて候へ場ば、身は軽ければ人は打ちはり(にく)むとも、法は重ければ必ず弘まるべし。 『乙御前御消息』 平成新編御書八九八頁
〈意訳〉 章安大師は涅槃経
(しょ)に「身は軽く法は重し、身を(ころ)して法を弘む」と述べている。日蓮の身は軽いから、人は打ち、たたき、憎むとも、法は重いので必ず弘まるであろう。 (10月)
謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。(中略)信謗(しんぼう)共に下種と為(な)ればなり。 『教機時国抄』 平成新編御書二七〇頁
 〈意訳〉 謗法の者に向かっては一途に法華経を説くべきである。それは毒鼓の縁となるからである。(中略)信ずるにしても謗ずるにしても、共に下種となるからである。(9月)
幸いなるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことよ。  『顕仏未来記』 平成新編御書六七八
〈意訳〉 何と幸せなことであろう。法難を受けることで一生の内に無始以来の謗法を消滅できることは。(8月) 
  源にごりぬればながれきよからず。身まがればかげなをからず。 『一谷入道女房御書』 平成新編御書八二七頁
〈意訳〉 源が濁っていればその流れは清くない。身体がまがっていればそのその影はまっすぐではない。(7月)
一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給ふべからず。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書一一六二頁
〈意訳〉 人間の一生は夢の上の出来事のように、はかないもので、明日の命も分からないものである。いかなる乞食になっても、法華経にきずをつけてはならない。(6月)
能く能く諸天にいのり申べし、信心にあかなくして所願を成就し給へ 『弥源太殿御返事』平成新編御書七二三頁  
〈意訳〉 よくよく諸天に祈りなさい。信心に怠りなくして所願を成就されなさい。(5月)
千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ()となる。百年の功も一言にやぶれ候は法のこ()わりなり 『兵衛志殿御返事』 平成新編御書一一八三頁           
〈意訳〉 千年も集めた
苅茅(屋根ふきようの草)も、火にあえばすぐに燃え尽きて灰となる。百年かけてつくりあげた功積も一言で破れる。これは物事の道理である。(4月)
あひかまえて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。『経王殿御返事』平成新編御書六八五頁 
〈意訳〉 心して信心を強盛にしてこの御本尊に祈念しなさい。何事も成就しないわけがあろうか。全て叶うのである。(3月)
 されば我が弟子等心身に法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。 『撰時抄』平成新編御書八七一頁
〈意訳〉 されば我が弟子等試みに法華経に説かれているように、身命を惜しまず修行して、このたび仏法が真実であるかないかを試みてみよ。必ず大果報のあることがわかるはずである。(2月)
只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来らぬ福やあるべき。『聖愚問答抄下』平成新編御書 四〇六頁
〈意訳〉 ただ南無妙法蓮華経とさえ唱えるならば消滅しない罪はなく、招来しない幸いもない。(平成26年1月)
 

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