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  【末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。】
 
   久遠の本仏と天地創造の神  
 
 今回は久遠の本仏とキリスト教などで説く天地創造の神についてお話しいたします。 
 世間一般には、神と仏は同一の存在であり、西洋と東洋の宗教の違いから、その呼称(こしょう)が違うだけであるという概念があります。
この考えは全くの誤りであり、仏法で説く仏と、キリスト教で言う神とは本質的に全く異なります。
しかしながら、神と仏は同じであると信じて疑わない人々が世の中には大勢います。日本においても、寺院によっては鳥居があったりします。
鳥居は「ここからが神域ですよ」という印です。
江戸時代までは、神社とお寺が一緒に建てられていることが多かったからだそうですが、平安時代に仏教が流行したとき、「日本の神様は、仏様が化身したもの」という思想が生まれました。
これは「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言う思想で、たとえば、伊勢神宮に祭られている天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽の神様だから太陽と関係の深い大日如来の化身、出雲大社の祭神である大国主命(おおくにぬしのみこと)は「ダイコク」とも読めるから、大黒天の化身といった具合です。
つまり、神も仏も、もともとは同じものだとの考えが蔓延していると言えます。

折伏に当って、仏と神の相違、そしてその根本的な教理の正邪を明確にする事は、非常に重要な事です。

【創造主について】
日本人が古来より信じる神とは、自然と一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀(さいし)であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされてきました。
いわば古来からの土着の民俗信仰であり、経典や具体的な教義もありません。
一方、キリスト教では神を主と尊称し、また創造主と崇めます。神を創造主と称する理由は、旧約聖書にある神が天地宇宙の一切を創造したとの記述です。
これが有名な創世記第一章、及び第二章です。
これによれば、神は第一日目に光と昼夜を創造し、二日目は天、三日目は地と海と植物、四日目は日月と星、五日目は動物、六日目は神の形に作った人間の男女を創造し、七日目に休息を取ったとされます。この故に創造主と言います。
キリスト教で言う創造主は
1、 永遠の存在であり、世界の一切を支配する。世界を創造し、破壊もできる。
2、 全知全能である。即ち世界の一切を知り尽くし、不可能は無い。
3、 人間の運命を決定する。
4、 神を信ずる者には恵みを与える。これを和解と言う。
5、 神を信じない者は地獄に落ち、救いは永遠に無い。
6、 預言者に啓示を与える。従って神の声は神が選んだ預言者のみが聞く事ができる。他の者は預言者の言葉を通してのみ神の意志を知る事ができる。
7、 神に姿は無い。 
以上のような定義づけができます。

即ち、私達の住む世界は、神の意志によって創造され、一切が神の意志によって支配されると説くのがキリスト教です。このキリスト教の創造主の概念はキリスト教への信仰の有無を問わず、また洋の東西を問わず(おおむ)ね浸透しており、それほど社会に受け入れられやすい宗教的感覚といえます。
世間一般に考えられている仏の概念もこれに準ずるものと言えます。

【仏について】 
キリスト教の信仰が創造主への絶対の服従と、創造主の奇跡による救済を待つことにあるのに対して、仏教の信仰は、一切は因果の法理であり、自己の仏道修行によって生老病死の四苦を克服する事にあります。
これが決定的に違います。
言い換えれば、キリスト教の救済が他への依存のみであるのに対し、仏教は苦惱へ挑戦して、苦惱を乗り越える事を教える宗教と言えます。 
仏教では仏が天地を創造したとは説きません。  
 日蓮大聖人様は『諸宗問答抄』に 
「我等一切衆生螻蟻蚊虻(ろうぎもんもう)等に至るまで、みな無始無終(むしむしゅう)の色心なり。衆生に於て有始有終(うしうしゅう)と思ふは外道の僻見(びゃっけん)なり。」(御書 37頁) 
と御示しのように、この宇宙法界は誰が創造したというものでもなく、無限の時空と共に無始無終(むしむしゅう)の存在です。「天地創造が真実であるなら、神が天地を創造した理由は何であるか?」という問いに対して、聖書には何の答えもありません。
姿を持たぬ神が自分に似せて人間を造ったと言うのも矛盾です。他にも多くの矛盾がありますが、ここでは割愛します。 

 反面、ヴェーダ経典に大梵天王(だいぼんてんのう)が宇宙を創造したとの記述があることから、仏教にも天地創造の思想があるかのように誤解する人がおりますが、大聖人様が「有始有終(うしうしゅう)と思ふは外道の僻見(びゃっけん)なり」と、破折されているようにバラモンの教えは外道義であり真実ではありません。
仏法で説く梵天は、その言葉はバラモン教と同一でも、その内容は全く異なります。大梵天王は仏法を守護する善神の働きの一つです。天地創造の神ではありません。 
 此の世に出現された真実の仏とは、父母の愛によって生まれた肉体を有する実際の人格であり、御自身の肉声をもって聴衆の全てに、自分で修行して悟った真実の法を説く『覚者(かくしゃ)』です。

 釈尊も日蓮大聖人も御両親の愛の行為によって御誕生になりました。聖母マリアの処女懐胎のような、道理を無視した脚色によって神聖視を植え付ける事はありません。
 また、仏はキリスト教で言う、神の啓示を受ける預言者でもありません。自らの悟りを自らの責任において解き明かし、衆生に仏と同様の修行の実践を奨励し、共に仏道を歩みます。 
 皆さんも勤行で唱える法華経寿量品の最後に
 「何を以てか衆生をして無上道(むじょうどう)に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」 (妙法蓮華経 並 開結 443頁) 
 とあるように、仏の衆生教化の目的は衆生に仏道修行をさせる事によって、衆生を仏と同様に仏にする事にあります。
 何故ならば、仏になることが絶対不動の幸福なる境涯であり、それによってはじめて生老病死の四苦を根本的に克服することができるからです。
 ここに仏と衆生の絶対平等があります。これに対してキリスト教は衆生が神になるとは説きません。
 従って神と衆生の間には決して埋める事のできない絶対差別があります。 


 『観心本尊抄』に
 (いま)本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化(しょけ)以て同体なり。(御書 654頁)
と御示しのように仏も衆生も宇宙法界と一体の存在であり、同様に無始無終(むしむしゅう)です。
 故に仏は私達の概念を超え、更に時空を越えて一人格を以って衆生に仏法を説き衆生を救済します。
 神の救済は、アダムとイブに始まり、最後の審判で終わるのでしょうが、仏の救済は始めも終わりも無く永遠に続くのです。これを明らかにするのが久遠本仏であり、下種益・熟益・脱益(だっちゃく)の三益の法門です。

 【久遠本仏について】
 この久遠の本仏については、唯一法華経にのみ示される甚深の法門であり、他の経典を依拠とする仏教各派の知るところではありませんし、久遠本仏の真義は、今日正しい血脈相承を受け継ぐ、日蓮正宗のみが伝持する法門です。  
 釈尊は法華経の開経である『無量義経』に 
 「四十余年には未だ真実を顕さず。」(妙法蓮華経 並 開結 23頁) 
と示され、また『法華経方便品』には 
 「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」(妙法蓮華経 並 開結 124頁) 
と示されています。六万或いは八万法蔵とも言われる膨大なる仏教経典の中で、法華経こそが釈尊の唯一絶対の真実の教えであり、出世の本懐です。
 その『法華経寿量品』には 
 「一切世間の天、人、及び阿修羅、皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて、伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、道場に座して、阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由多劫なり。」(妙法蓮華経 並 開結 429頁) 
「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。」(妙法蓮華経 並 開結 433頁) 
とあります。
 世間一般には、仏とは約3000年の昔、インドに生また 釈尊であり、仏教は釈迦の創始によって始まったと考えられ、信じられています。
 釈尊の弟子達も釈尊は今生で仏に成ったと信じていたのですが、実は釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に既に仏になっていたと、釈尊自身が明確に述べました。これが久遠の仏です。
 他の日蓮宗各派もこの意義から久遠本仏の法門を立てますが、久遠本仏の実義は更に深いのです。  
 これについて日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に
 「本門を以て之を疑はば、教主釈尊は五百塵点已前(ごひゃくじんでんいぜん)の仏なり、因位も又是くの如し。其れより已来十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数の衆生を教化したまふ。」       (御書 649頁)
との御教示をされています。
 また『三種教相事』には 
 「寿量品の意なり、五百塵点(ごひゃくじんでん)は久遠を以て元始と為すなり。世々番々の成道なり。」(御書 57頁)『今此三界合文(こんしさんがいもん)』には
 「本門に於て(また)二種有り。一には随他(ずいた)の本門、二には随自(ずいじ)の本門なり。初めに随他(ずいた)の本門とは、五百塵点(ごひゃくじんでん)の本初の実成は正しく本行菩薩道所修の行に由る。久遠を説くと雖も其の時分を定め、遠本を明かすと雖も因に由て果を得るの義は始成の説に順ず。(つぶさ)に寿量品の中に説く所の五百塵点(ごひゃくじんでん)等の如し。」(御書 254頁-255頁)  
と御示しです。
 少々難しい法門ですが、つまり、法華経寿量品には文上と文底の法門があり、法華経の文々句々の表面上の教えによれば釈尊は五百塵点(ごひゃくじんでん)劫という遠い過去に成道したのですが、更に奥深いその文章の奥底にある真意は、釈尊はそれから更に(さかのぼ)る、久遠元初という無始の過去において既に成仏を遂げていたという法門です。
もし因である修行と、果である成仏を立て分けて、釈尊の成仏の時節を定めてしまったならば、仏の無始無終(むしむしゅう)の命と矛盾することになり、仏の無始無終(むしむしゅう)の衆生救済は机上の空論になってしまいます。 

 大聖人様は『当体義抄』に 
 「至理(しり)は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減(けつげん)無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。」(御書 695頁) 
と御示しになられ、また『総勘文抄』には 
 「釈迦如来五百塵点(ごひゃくじんでん)劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。」 (御書 1419頁) 
と御示しです。
 即ち久遠元初において、釈尊がまだ凡夫であった時、我が身は法界と一体である真理を完璧に悟り、凡夫のまま即座に仏になったと言うことです。
 その真理とは、《因果倶時の不思議の一法》であり、聖人即ち《凡夫であった久遠元初の釈尊がこれを妙法蓮華と名づけ、この真理によって修行したとき即座に仏に成った》のです。
 これを「久遠元初の本仏」と言い、久遠本仏の実義です。
 久遠の御本仏も実に私たちと同様、凡夫の位にして即座に仏に成ったのでありますから、これによって初めて私達が差別無く仏に成ることが証明されたのです。 
日蓮大聖人様が『船守弥三郎許御書』に 
過去久遠五百塵点(ごひゃくじんでん)のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。」(御書 262頁) 
と御教示になられる事を、私共は深く心に刻むべきです。 
 『御義口伝』に 
 「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。」 (御書 1779頁) 
と仰せられ、相伝深秘の法門である『百六箇抄』には、
 「久遠釈尊の口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり。」 (御書 1694頁)
 「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。」 (御書 1696頁) 
と御示しです。
 即ち、久遠は即ち末法であり、末法は即ち久遠です。更には久遠元初の仏は末法の仏であり、末法の仏は久遠元初の仏です。
 よって末法の御本仏日蓮大聖人様こそ久遠本仏の姿なのです。

 久遠元初を天地創造のような世界の始まりと思う人もおられる様ですが、是は全く違います。
 仏法は決してキリスト教のように因果を考えない天地創造を説きません。
 久遠元初とは凡夫であった御本仏が、因果倶時の真理である南無妙法蓮華経のお題目を唱える妙行によって即身成仏を遂げた時の事です。 

 本来は、久遠の仏と地涌上行菩薩との関係も説明しなければなりませんが、非常に深い御法門であり、長い話となりますので、別の機会に譲りたいと思います。

 御法主日如猊下は、私共に、常に唱題と折伏の大事を御指南されております。私達の唱題と折伏は、久遠元初の御本仏、そして末法の御本仏である日蓮大聖人様が即身成仏を遂げられた御修行です。
 僧俗和合して人生の最後まで題目を唱えきりましょう。

 
     
 

如来(にょらい)滅後(めつご)五五(ごご)百歳(ひゃくさいに)
(はじむ)観心(かんじんの)本尊抄(ほんぞんしょう)
(御書661頁17行)
 
天台(てんだい)()はく「(あめ)(たけ)きを()(りゅう)(だい)なるを()り、(はな)(さか)んなるを()(いけ)(ふか)きを()る」等云云。妙楽(みょうらく)()はく「智人(ちにん)()()(じゃ)(おのずか)(じゃ)()る」等云云。天晴(てんは)れぬれば地明(ちあき)らかなり、法華(ほっけ)()(もの)世法(せほう)()べきか。一念三千(いちねんさんぜん)()らざる(もの)には(ほとけ)大慈悲(だいじひ)()こし、五字(ごじ)(うち)()(たま)(つつ)み、末代幼稚(まつだいようち)(くび)()けさしめたまふ。

 
 
        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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