ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第308号)  
   
 
  かならずかならず身のまづしきをなげくべがらず。唯信心のまづしき事をなげくべけれ
 
  豊かな信心・貧しい信心  
 
【樒一枚の御供養】

御供養について、総本山大石寺の吉野総代(故人)の奥さんで、観行坊支部の吉野幸子さんの次の手記があります。

私(吉野)は御供養の話がある度に、青年部時代に所属していたお寺の御住職様のご指導を思い出します。それは、昭和三十年前後の静岡県清水の妙盛寺(故秋田慈舟師S40年頃寂)での事でした。

私がお寺に住職として着任してまもなく、一本の電話が入った。「遠い所ですが、主人が亡くなったので、お葬式をお願いします」とのことだった。
次の日、どしゃ降りの雨の中を、汽車で金谷まで行き、金谷から駿遠線に乗り換え、終点で降りて、又一時間ほどバスにゆられて終点で降り、そこから四、五十分、家一軒もない山道を雨に濡れて歩いて行くと、はるか向こうに小さな掘っ立て小屋が見えた。「まさか、あそこではないだろう、道をまちがえたかな」と思いながらも、他に家らしきものもないので、その小屋へ行ってみたら、なんと、そこが亡くなった人の家だった。 
その家ヘー歩入った途端、声が出ない程驚いた。家の中は雨漏りがひどくて、バケツから洗面器や鍋と、ありとあらゆるものが、十個位並んでいた。畳もなく、筵を敷いた家の中で、小さな子供が四、五人とおかみさんが、亡くなったご主人のまわりにいる。
他の人は誰もいない。枕元を見ると、御本尊様にきれいな樒が供えられていた。勤行しているのがすぐに分かって、うれしかった。
それから懇ろに御回向した後、「火葬場は?」と聞いたら、「私と子供達でお父さんをリヤカーヘ乗せて行きますから」と言われて、次の言葉が出せなかった。
私が、「お題目を家族で一生懸命唱えて、御本尊様にすがりきって行きなさい。困った時には、何時でも相談に来なさいよ」と言って帰り仕度をしていると、半紙に御供養と書いてある分厚いものをお盆にのせ、目の上の高さまで押し頂いて持ってきて、私の前へ差し出し、正座をして、「御住職様、今の私の家には、これしかお礼を差し上げられません。どうぞお受け取り下さい」と言う。
頂いていいのかどうか、「いいんだよ」と言うことも出来ず、迷っていた。すると、おかみさんが無理に私の手に握らせ、頭を畳にすりつけてお辞儀をしている姿を見て、有り難く頂戴した。そして、「御本尊様にお供えします。何か困った事があったら、必ず相談にくるんだよ。信心をしっかりするんだよ。必ず道が開けるからね」と言って帰路についた。
帰る道々、懐の中の分厚い御供養を思い出し、「あんなに貧しい生活をしているのに、どうしてこんなにお金を貯められたのかな」と、種々思いをめぐらしながら、お寺へ帰ってすぐに、御本尊様にお供えした。故人を思い、お経を唱えてから、頂いた御供養をあけさせてもらった。
そしたら包んである半紙を開けども開けども、何枚開いてもまだ半紙、丁寧にきちんと折りたたんだ半紙、十枚開いても、まだ半紙。「何だろう」と思いながら開いた半紙が十五、六枚。最後に出てきたのは、シキミの葉一枚に、手紙が添えられていた。
それには「今、家には御供養したくても、お金がありません。真心こめて、このシキミを御供養させて頂きます。これから一生懸命働いて、必ず御供養させて頂きます」と書かれていた。
私は感激した。有り難くて有り難くて、こんなに素晴らしい御供養を、頂いた事は今まで一度もなかった。又これだけ真心のこもった、素晴らしい御供養は、これから一生頂くことは出来ないだろう、と思って涙が止まらなかった。
御供養というものは、人に言われて、出すものではない。仏様に対して「自分の真心を捧げて、受け取って頂くもの」だ。その御供養を、私が自由に使ってしまったら、皆さんがもらう罰より数百倍もひどい罰を、私は受けなければならない。
それから何年も経って、いつとはなくその家族を忘れていたら、ある日執事さんが「ご来客ですが、名前を言いません」と言って、私を呼びに来た。出てみたら、全然知らないご婦人と立派な身なりをした青年が、ニコニコしながら「御住職様、私達を覚えておられますか」と言われても、私は全然知らない人なので「わかりません」と言うと、青年が「十年程前、どしゃ降りの雨の中をおいで下さって、お葬式をして頂いた者です。今日は、父のお葬式の御供養を持参致しました」と言われ、思い出した。
私の足下に土下座までして、シキミを包んであった半紙と同じくらいの厚さの御供養を出された。
驚いている私に、「主人の亡くなった後、家族で東京に出て、死にものぐるいで働きました。子供達は中学までしか出してやれなかったけれど、皆立派に成長し、小さいながらも自分達の土地と家を持つことが出来ました。東京のお寺について、家族六人で信心させて頂き、一生懸命頑張っています。子供達は中学出なのに一流企業に就職し、今一番下の子だけ、高校に行っています。私は今とても幸せで、もしこれが夢であるなら醒めないでほしいと、毎日御本尊様にお願いし、感謝感謝の日々を送っています」と言って帰られた。
私も大変うれしくなった。「すばらしい信心をしているんだな」と感心した。お金持ちが一千万出すより、困っている人が御供養したいけど、今はこれしかできないからと、真心込めてする御供養がいかに大事なことか。
私が、いつも御供養の大切さを話しているけど、本当の御供養の精神を、皆に分かってもらいたいと思って、この話をしているんだよ。

私(吉野さん)は御住職様からこの話を聞いた時から「私も、仏様に受けとって頂ける御供養をしていこう」と、心に念じながら御供養させて頂いております。
(『祖道』1912号より)

【松任治兵衛への日寛上人のお手紙】

江戸時代、弾圧の暗雲がたれこめ始めた亨保9(1724)年ごろ金沢藩の一信者であった松任治兵衛氏にあてられた第26世日寛上人の有名なご消息があります。

「かならずかならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみて御供養候とも若信心なくばせんなき事なるべし。たとヘ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。阿育王の因縁など思ひ出られ候べく候。かならずかならず身のまづしきをなげくべがらず。唯信心のまづしき事をなげくべけれ 」
松任治兵衛さんが御本尊様を日寛上人から下附していただいたことへのご供養として「自分は貧しくて何も奉ることが出来ません。ただお題目を一万遍唱えて御供養申し上げます。」といった趣旨の手紙を出したものと思われます。
それに対して、日寛上人はその志を賛嘆され、信の一字の大切さを語られています。短いお手紙のなかに「かならずかならす」とのお言葉が二度も記されており、日寛上人の心情がにじみ出ていています。
 身の貧しいことを嘆いてはいけない、信心の貧しいことを嘆きなさい、とのお言葉が、時を超えてわたしたちの胸につき刺さってきます。

【阿育王の因縁】

ここで、日寛上人がお手紙で仰せの「阿育王の因縁」にいて大聖人様は
『窪尼御前御返事』に
「阿育大王という王は、この太陽が照らす一閻浮提のほぼ全体を治めた王です。この王が昔、徳勝といっていた五歳の童子の時、釈迦仏に砂の餅を差し上げた功徳によりこのような大王と生まれたのです。この童子はそれほどの志もなく、戯れのように供養したのですが、(それを受けられた)仏が尊かったので、わずかのことでもそれが因となって、そのようなめでたい果報を受けられたのです。
 まして、法華経(御本尊・日蓮大聖人)が仏(釈尊)に勝れることは星と月と、燈と太陽のようです。また、(御供養くださった尼御前の)御心も(徳勝童子に)勝っています。よって亡きご主人も成仏なさっておいでです。」
(御書1673頁 趣意)
と仰せです。
 譬え砂の餅であっても、真の仏への真心からの御供養することの功徳の広大さを説かれています。

【正本堂が消失した訳】

創価学会は破門以降、
「正本堂や堂宇を寄進してきたのは創価学会だ」
「宗門にどれほど供養したと思ってるんだ」
「宗門が大きくなったのは創価学会のおかげだ」
「広宣流布に多大な貢献をした池田名誉会長や
創価学会を破門にするとは何事だ」
などと信心の欠片もない主張をしています。 
 いくら財を積んで堂宇の寄進や御供養をしたと言っても、彼等には「御供養をしてやった」という慢心しかありません。
学会幹部の言う、「してやった」という心根の多額の供養よりも、信心の発露による、心からの一万遍の唱題の方が尊いと日寛上人は仰せなのです。
その無信心と大慢心は、池田大作達には誠の信心がなかったということであり、それを自ら証明しております。

 「池田大作の功労や貢献」を強調し、また、「池田大作の勲章」「著名人とのツーショット写真」を宣伝している新興宗教池田創価学会が、日寛上人様の御指南に真っ向から背いていることは明々白々です。
 日寛上人は
 「法蓮抄に云わく、『愚人の正義に違うこと昔も今も異ならず、但外相のみ貴び内智を貴ばず』等云々。之を思い合わすべし。」
(日寛上人御書文段 38頁)
と、仰せです。

こういう外面ばかりで中身のない、不信心な幹部に教育された学会員は、「功徳(金額)が倍になって返ってくるから財務しましょう。」と洗脳され、3桁(百万円単位)4桁(千万円単位)頑張ろうと煽られ、無茶な金策までする人が続出しています。
これではまるで「金で功徳を買う」と言っているようなもので、御供養の精神が欠けています。
供養とは、功徳をもらうためでなく、報恩感謝の顕れであり、信心の顕れです。「してやる」のでなく「させていただく」という敬虔な信心がなければ日寛上人の仰せのように
『たとへ山のごとく財をつみ御供養候とも若信心なくは せんなき事なるべし』なのです。

創価学会員の、三宝である大御本尊様に何の関係もない創価の財務に「功徳がある」と思い込んで、年末にせっせと振り込んでいる姿は、実に哀れです。

奉安堂が建立された時、正本堂建立御供養をされた方は複雑な思いがあったでしょうし、今なお創価学会員の中には怨嗟の命が消えない人もいます。
怒るなら、当時の世界中の学会員はもとより法華講員・僧侶・寺族がされた赤誠の「正本堂建立御供養」を、発願主である「池田大作」一人の功績であるかのように振る舞い、集まったお金を意のままに使用し、「俺が建ててやった」との慢心から宗門に圧力をかけるように変節してしまった、池田大作やその取り巻きに向けるべきなのです。
正本堂建立の歓びに沸く中、裏では創価学会が宗門に圧力をかけ始めました。
当時の日達上人のお言葉に
「一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。(中略)
その時、「国際センターを造る」と。「創価学会と日蓮正宗ともう1つ上に、日蓮正宗国際センターというものをつくる」という趣旨で来られました。
 私は、はっきり断りました。(中略)はっきり、日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと云うものを、私は否定と云いますか、お断りしたわけでございます。
 それから端を発して、色々の、その後の、「最近の1年か2年かにわたる所の、学会の教義の違い、謗法のあり方」と云う事を私は申上げました。で、ついに、その為に2人は帰って行きました。
 また会計を、「大石寺の会計も調べる。その会計を調べる」と云う。(中略)その時に北条さんが云うには、「若し調べさせなければ手を分かつ、おさらぼする」とはっきり言ったのです。(中略)
 という様な出来事が多々ありまして、「これはもう、これじゃ、このままじゃ話にもならない。どこまでも、もし、学会がこなければ、もう、それは『正本堂』を造ってもらって有難い、『正本堂』は、その時の、日蓮正宗の、少なくとも信心する人の集まりによって、その供養によって出来た建物である。だからもし、学会が来なくて、こっちが生活が立たない、というならば、御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してもいい」と、いう覚悟を決めたわけです」
(昭和49年7月27日・日達上人お言葉)
と、仰せです。
 日顕上人が嫉妬によって正本堂を破壊したと学会では言いますが、先に挙げた日達上人のお考えを踏襲されただけと言えます。
 
 大御本尊様を御安置する正本堂が消失したということは、「御仏智」であり、これが「大御本尊様の御意志」なのです。
すなわち、大石寺を誹謗し、会員を登山させない様に指導する者が「発願主」となった堂宇を、大御本尊様が拒否された、「そういう心根なら受け取れません」と御供養を突き返されたという事なのです。

また、大御本尊様が身延や創価学会でなく大石寺に厳護されていること、学会員や顕正会員が大御本尊様にお目通り叶わない身に堕ちている現実は、全て御仏智(大聖人様の御意志)であることに、早く気付いて欲しいものです。

【豊かな信心を】

 私達の信心が貧しくなるとは、どのようなことでしょう。
御本尊に向かって数珠を掛けて手を合わせることができなくなること。知恩報恩を忘れて勤行や題目を唱えなくなる姿のことです。
御本尊へのお給仕を疎かにすることも信心が貧しい証拠です。
さらには、寺院への参詣や本門戒壇の大御本尊在す総本山への登山が大事であると思えなくなる気持ちが信心の上では貧しいことになります。
さらに、金額の多寡ではなく、常に報恩感謝の御供養させていただこうという志が起きないことも、貧しい信心と言えます。
 もし、少しでも信心の貧しさに当てはまる気持ちがある場合は、即刻反省して信心の貧しさを悔い改めるべきです。
 悔い改めて信心を中心とした生活を基本としていけば、御本尊から御加護を頂いた人生を過ごしていくことが叶います。
 しかし、信心の貧しさを顧みずに、薄っぺらな幸せを追い求め、身の貧しさに嘆くだけの生活を過ごせば、さらに身の貧しい人生となってしまいます。
信心が貧しくならないように、信心でどんな苦難をも克服していけるよう御本尊を信じて有難いお力を頂きながら、しっかりと手に数珠を掛けて祈るところ、身の貧しさを乗り越えていくことができるのです。
金沢法難時の中心者は、副業をしなければ生きてゆけないようなまずしい下級の武上たちでした。しかし、その信心の豊かさは300年近くたった今もなお、時の隔りを感じさせず、わたしたちのお手本としてあり続けてくれています。


 
     
 
 令和元年六月度 御報恩御講拝読御書 
開目抄文永九年二月  五十一歳
 我並(われなら)びに(わが)弟子(でし)諸難(しょなん)ありとも(うたが)(こころ)なくば、自然(じねん)仏界(ぶっかい)にいたるべし。(てん)加護(かご)なき(こと)(うたが)はざれ。現世(げんせ)安穏(あんのん)ならざる(こと)をなげかざれ。()弟子(でし)朝夕教(ちょうせきおし)へしかども、(うたが)ひををこして(みな)すてけん。(つた)たなき(もの)のならひは、約束(やくそく)せし(こと)をまことの(とき)はわするゝなるべし。
      (御書五七四㌻一二行目~一四行目)
 
 
        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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