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  【かぎりなく 境涯ひらく題目を 常にとなえつ 広布目指さん】
 
  常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり   
 
【宝塚音楽学校に貼り出された
「ブスの25箇条」】

(徳勝宝塚音楽学校の規則が厳しいことは、世間でもよく知られていますが、その舞台裏に貼られた「ブスの25箇条」というものがあります。
ある日、いつ、誰が、何のために貼ったのか、誰も分からず、しかも今は外されているそうです。
トップスターだった貴城ケイさんの本
『宝塚式「ブスの25箇条」に学ぶ「美人」養成講座』(講談社+α文庫)に載っていた訓戒のようなもので、一時期有名になりましたので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
ある時期から歌劇団の人なら誰もが目にする場所に貼り出された1枚の紙。
当時は誰もがその貼り紙の前で足を止め、見入っていたそうです。
「こうするとブスになる」という、この25の戒めは、女性だけを対象としたものではなく、人としてのあるべき姿を示したものではないかと思います。
その25箇条とは
①笑顔がない
②お礼を言わない
③おいしいと言わない
④精気がない
⑤自信がない
⑥グチをこぼす
⑦希望や信念がない
⑧いつも周囲が悪いと思っている
⑨自分がブスであることを知らない
⑩声が小さくいじけている
⑪何でもないことにキズつく
⑫他人にシットする
⑬目が輝いていない
⑭いつも口がへの字の形をしている
責任転嫁(せきにんてんか)がうまい
⑯他人をうらむ
⑰悲観的に物事を考える
⑱問題意識を持っていない
⑲他人につくさない
⑳他人を信じない
㉑人生においても仕事においても意欲がない
㉒謙虚さがなくゴウマンである
㉓人のアドバイスや忠告を受け入れない
㉔自分が最も正しいと信じている
㉕存在自体が周囲を暗くする
です。
 仏道を修行する者としても、非常に大切な事が書かれています。
 城島ケイさんは、ある雑誌のインタビューにこう答えています。
「宝塚の大階段から明るく、大きなスポットライトを浴びて降りてくるトップの裏側には、必ず努力と忍耐の日々があるのです。
 しかし、そんなことは、満面の笑みで歌い、踊り続け、お客様に夢のひと時を提供する。どんなに疲れていても、どんなにつらいことや悲しいことがあっても、劇場に足を運んでくださったお客様に心から感謝を込めて最高の笑顔でお迎えする。そして笑顔で劇場を後にしていただく。それがタカラジェンヌとして、一番のベースとなる心構えであったように思います。」
(『致知(ちち)』2010年3月号 特集「運をつかむ」)

 宝塚歌劇団が、今でも人々を魅了してやまない理由がここにあります。歌や踊りの技術以上に、日常の考え方、振る舞いが大切だと分かります。
 逆に、ここに書かれている反対の事を心掛ければ、男女関係なく人として「ブス」から脱却できます。
 そして、ひいてはそれが、世間では「運を掴む方法」と考えられているようですが、日蓮大聖人様の教えから見た場合、これを犯さなければ福徳が付き人から愛されるようになるのではないでしょうか。
 しかし、この25箇条を末法の荒凡夫である我々が犯さないようにすることは至難です。
 常に眺めて「こう心がけよう」「こう実践しよう」と自分を誡めることは出来ても、特に『存在自体が周囲を暗くする』などは、持って生まれた自分の「性分」「癖」「命」「宿業」を変える必要があるからです。
 我々の命は、常に周囲の縁によって激しく変動し、泣いたり・怒ったり・笑ったりします。
 その中で、御本尊様に縁し、お題目を唱える事によってのみ、罪障消滅が叶い、命を磨いていくことが出来るのです。

 【わざわいは口より出でて身をやぶる】

 仏法では十悪業(じゅうあくごう)が説かれます。
 大聖人様も十悪について『聖愚問答抄』に
 「身に三、口に四、意に三なり。身に三とは(さつ)(とう)(いん)、口に四とは妄語(もうご)綺語(きご)悪口(あっく)両舌(りょうぜつ)、意に三とは(とん)(じん)()、是を十悪と云ふなり。」(御書385頁)
と説かれます。
 すなわち、十悪とは、身口意にわたる悪業のうち、最も(はなはだ)しい十種をあげたものです。
●身の三悪〔殺生(せっしょう)偸盗(ちゅうとう)邪婬(じゃいん)
●口の四悪〔妄語、綺語(真実にそむいて巧みに言葉を飾り立てる)、悪口、両舌(二枚舌)〕
●意の三悪〔貪欲(とんよく)(欲張り)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろか)〕の十種類の悪業を言います。
 これらの行為によって、世間でも批難され信用を失ってしまいます。そして、この十悪のうち、口の悪が半分近くを占めていることに、我々は注意しなくてはなりません。
日蓮大聖人様は『十字御書』に、
 「わざわいは口より出でて身をやぶる」(御書1551)
と仰せですが、誰でも罪の意識を持たず、簡単に犯してしまいやすいのです。
 『日蓮正宗』を信仰する者は、言葉を大切にしなければなりません。
私たちの、普段の言葉遣いは、日蓮大聖人様の弟子・檀那として恥ずかしくないように、柔軟な、優しい言葉遣いをすべきです。
 大聖人様は『崇峻天皇御書』に、
 「されば王位の身なれども、思ふ事をばたやすく申さぬぞ。孔子と申せし賢人は九思一言とて、ここのたび(九度)おもひて一度(ひとたび)申す」(御書1174)
と仰せです。
 『思ったことを話すのは、正直だ』と思われるかも知れませんが、それが、他人を悩ませたり、苦しめたり、追い詰める言葉であるならば、言うべきではありません。
大聖人様は「わざわいは口より出でて身をやぶる」と仰せの後、続けて
 「さいわい(幸い)は心よりいでて我をかざる」(御書1492ページ)
と仰せです。
 人々の幸福を願い行動することで、自分自身は輝いていくのです。私達は、心の(たから)を積むために、朝夕の勤行をし、お題目を唱え、折伏という修行をしているのです。
 
 また、大聖人は『妙法尼御前御返事』に、
 「人の身の五尺六尺のたましひも一尺の面にあらはれ一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候」(御書1243)
と仰せです。
 どんなにうわべだけ綺麗事を並べて取り繕おうとしても、表情や目つきに顕れてしまいます。唱題を重ねることによって、自己の内からにじみ出る仏の命が、自然と表情に顕れ、接する人々を和ませていくのです。
 声も同じです、声自体が生命の一つの実相であり、心と一体となっています。つまり心と声が色心不ニをなしているのです。
 例えば、普段、仏頂面している気難しいお父さんが、孫やペットには相好(そうごう)を崩して赤ちゃん言葉で話している姿を見たり、聞いたりしたことはありませんか?
 実にこれは、非常に理に(かな)っている方法で、大聖人様も
(ことば)と云ふは心の思ひを響かして声を顕はすを云ふなり。」(御書1414頁)
と仰せのごとく、赤ちゃんや動物は相手の目や声質で「その人の心を知る能力」を持っていると言われています。

 【声仏事を為す】

 大聖人は『如説修行抄』にて、
「誰人にても(おわ)せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。」(御書629頁)
と仰せです。
 すなわち「他宗を信仰していては、成仏出来ないばかりか地獄に堕ちてしまいます。日蓮正宗の教え以外に人々を成仏させられる法はありません。」と声を出し惜しみしないで折伏しなさいと、ハッキリ仰せなのです。
 なぜそこまで言わなければならないのかと申しますと、
 『善無畏(ぜんむい)三蔵抄』に
 「仮令強言(たといごうげん)なれども、人をたすくれば実語・軟語(なんご)なるべし。設ひ軟語(なんご)なれども、人を損ずるは妄語(もうご)強言(ごうげん)なり。当世学匠(がくしょう)等の法門は、軟語(なんご)・実語と人々は(おぼ)()したれども皆強言(ごうげん)妄語(もうご)なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又(あやま)りの宗なりなんど申し候は、強言(ごうげん)とは思し食すとも実語・軟語(なんご)なるべし」(御書445頁)
とありますように、その人の幸せのため、成仏の為には、本当の事(実語)を語って行くことこそが、優しい言葉(軟語)であるからです。
 折伏相手が頑迷(がんめい)であればあるほど、また、学会員などが「日顕宗」「ニッケン」などと誹謗すればするほど、こちらは冷静になって、慈悲を持たなければなりません。
これには私も大いに反省すべき事がありまして、最近は学会も罰の現証が出ていよいよ生命力が無くなって来たのか、男子部などが来なくなりました。
 数年前、よく文句を言いに来ていた男子部に「あなたは、学会に功徳があると言うけど、聞くところによると離婚して仕事も辞め、家も手放したそうだね。それで、組織では今が宿命転換の時だから頑張れとか言われて執拗にこうして慈本寺に来る訳だ。」と言うと、図星だったらしく激高して「そういう人を救って行くのがあんた達、坊さんの役目じゃないのか!」と言われました。大声を出している割に、彼の目は哀しみをたたえていました。
 「そりゃうちの信者さんなら、いくらでも言い励まして共に祈りますよ。あなたも脱会して来たらどうですか?」と返答しましたが、後の祭りです。
 自分の事を嘲けり笑う人間に、心を開く訳がありません。彼が帰った後、大いに反省しました。
 本来、私達の読経唱題の声も、折伏のためにお話する声も、みな自行化他にわたる救済の仏事をなしているわけです。 
 私には、学会に洗脳され不幸にあえぎながら、それにすら気付けない目の前の男子部員への慈悲に欠けていました。

【常に口ずさみにすべき事は
         南無妙法蓮華経なり】
 大聖人は『十章抄(じゅっしょうしょう)』に、
「常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。」(御書466頁)
と仰せです。
 何気ない日常の言葉が、三毒である、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろか)に抵触(ていしょく)していないか、妄語(いかり)、綺語、悪口、両舌でないか、常に振り返ることが大切です。
我々の口を、常にお題目と大御本尊様のために使うよう、心がけるのです。
 かつて御隠尊日顕上人猊下は、
 「かぎりなく 境涯ひらく題目を 常にとなえつ 広布目指さん」(大日蓮・平成11年3月号72頁)
と詠んでくださいました。
 私達が境界を開くにはお題目しかありません。お題目の実践無くして、先に挙げた『ブスの25箇条』を犯さない事は不可能です。
 そして、日如上人猊下が常々仰せのごとく、自分の幸せだけ祈るのは無慈悲であり、常に折伏を行ずる、自行化他の信心が大切なのです。
 そして、それが自身を護り、幸福へとつながっていくのです。
 最後に、ある御信徒の奥さんのお話を致します。
 その方は、家族で日蓮正宗に改宗して間もなく、癌が発見されます。余命宣告をされた中、常にご主人へ、改宗出来た今が人生で一番幸せであること、御本尊様への確信と、ご主人への感謝と愛情を、亡くなる間際まで訴え続けました。
 残されたご主人や子供さんは、亡き奥さんの残してくれた言葉が、生きる希望、生きる糧となり、今なお御夫婦の絆を感じます。
 お題目を唱えきった方の清らかな言葉は、仏事を成し、死してもなお現当二世にわたって家族を支え、護っていくのです。


 
     
 
   令和元年七月度 御報恩御講拝読御書

立 正(りっしょう)安 国 論(あんこくろん) 文応元年七月十六日 三十九歳

 
汝(なんじ)須(すべから)く一身(いっしん)の安(あん)堵(ど )を思(おも)はゞ先(ま )づ四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を禱(いの)るべ
きものか。就中(なかんずく)人(ひと)の世(よ )に在(あ )るや各(おのおの)後生(ごしょう)を恐(おそ)る。是(ここ)を以(もっ)て或は(あるい)邪教(じゃきょう)を信(しん)じ、或は(あるい)謗法(ほうぼう)を貴ぶ(たっと)。各(おのおの)是非(ぜひ)に迷(まよ)ふことを悪(にく)むと雖も(いえど)、而(しか)も猶(なお)仏法(ぶっぽう)に帰(き )することを哀(かな)しむ。何(なん)ぞ同(おな)じく信心(しんじん)の力を(ちから)以(もっ)て妄(みだ)りに邪(じゃ)義(ぎ )の詞を(ことば)宗(あが)めんや。
(御書249㌻7行目~9行目)

 
 
        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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