ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第310号)  
   
 
  【命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり】
 
  一日も生きておはせば功徳積もるべし 
 
 
 【人生の目的とは】一日も生きておはせば功徳積もるべし
 
 私たちの人生の目的はというと、誰でも「幸せになるため」と言うでしょう。
 ではどうやったら幸せになれるかと訊くと、はっきりと答えられる人は少ないのです。
 最近、著名人がテレビで、「お金で大半のことは叶うからお金が一番大事と、亡き母から教わった。」と臆面も無く述べていました。果たしてそうでしょうか?
 月収一億円の人が脱税で逮捕されたり、お金を持っているが故に誘拐や殺人など悲惨な事件に巻き込まれたりする事例もあります。
 いくらお金を持っていようと貪りの心は満たされず、他人を騙したり危害を加えたりと、犯罪に手を染める者もいます。
 大聖人様が、「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(御書1173頁)と仰せになられる所以はここにあります。
 令和に入っても、ミサイルが飛び、隣国と調和が取れない混沌とした世界情勢ですが、一度戦乱に巻き込まれでもしたら、今まで築いてきた家も財産も全て消し飛び、命の危機にさらされてしまうのです。大聖人様が仰せのように、一国の安寧がいかに大事かという事も、我々は過去の戦争や災害を通して知っているはずです。
 国民それぞれが色々考え、実行しているでしょうが、どうしたら幸せになれるか、という「法」を知らないから、色々と迷ってしまいます。

 結論から言うと正しい「法」に(のっと)って生きていけば幸せになれます。
 人間は生まれながらに不平等です。最初から恵まれている人もいれば、不幸な人もいます。その違いは誰のせいでもなく、自分の因・縁・果・報からきていると仏は説かれております。
 私たちは色々な病、宿業があり、罪障を持っています。それは過去から現在まで、色々な縁に触れて罪業という原因を作り、「因果応報」といって、その業果を受けているのです。

 この宿業を消滅していかなければ、本物の幸せはないし、この法を知らずにどんなに努力しても、それは報われず、何の為に生きているのか、という事になってしまうわけです。
 その命の姿を釈尊は「十界互具・一念三千」と表わし、正しく善い行いで、未来の自分を作っていくのだと説きます。
 御本仏日蓮大聖人様は、この「生命の実相」が南無妙法蓮華経であると、解き明かされました。

 世間では、より良く生きて幸せになるために、様々な道徳、哲学、宗教が考えられてきました。
 それを信じる人たちも、そこには色んなありがたい事が説いてあって、それを信じてさえいれば救われると思っているし、逆に信じていない人は、信じなくとも自分の生活には何の影響も無いと思い込んでいます。

 しかし、実際はそうではありません。
 その教えの全てが正しく「法」を悟り、根本から幸せになる道を説いているのならいいのですが、(ほとん)どが偏った教え、間違った教えなのです。
 そしてその間違った教えを信じてしまったら、自分だけでなく、家族や一族を不幸にしてしまうのです。
 御本仏日蓮大聖人様は文証、理証、現証の上から、宗教の邪正(じゃしょう)・善悪を説き現わされています。
 ですから、一般に信じているものが、現実に「諸法実相」という生命の本質を、全て説き明かされていないから救われることはないのです。
 この「実相」に現れている宿業を打開、罪障を消滅して一生成仏という最高の幸せを得ることができる教え、道は、この日蓮正宗以外にはありません。
 その南無妙法蓮華経を信じ、行じていく時に、私たち自身の生命に仏様と同じ力(仏性)、本当の意味において、何があっても乗り越えていける大きな力が表われてきます。
 その上から、宿業、罪障、命の汚れというものを、きれいにしていくことが出来るのです。
 今回は、可延定業御書(御書 760頁)を拝し、宿業の打開と生きる意味について考えてみたいと思います。


 【可延定業(かえんじょうごう)御書について】
 本抄は、文永十二(一二七五)年二月七日、日蓮大聖人様が五十四歳の御時に、 富木常忍(ときじょうにん)の女房である尼御前(あまごぜん)に宛てて(したた)められた御消息です。
 文永十一年九月頃、尼御前は病を(わずら)っており、その後、回復に向かったけれども依然として再発の恐れがあったようです。
 その病状を、翌月に身延へ登山した四条金吾殿から聞かれた大聖人様が、その病状を心配され、尼御前に対して「あなたの病は必ず治る。また治しなさい」と激励されました。そして、当病平癒の方途を示されたのが本抄です。
 大聖人様は、初めに「病」には軽病と重病の二つがあり、重病であっても善い医者によって直ちに処置をすれば命を長らえることができること。また「業」には定業と不定業の二つがあるけれども、よく懺悔すれば定業さえも消滅することができると示されます。
 次に、釈尊一代の諸経の中でも真実の経典である法華経の『薬王品』には、
 「此の経は則ち()れ、閻浮提(えんぶだい)の人の病の良薬(ろうやく)なり」(法華経 539頁)
と説かれており、これは多宝仏の証明(しょうみょう)や諸仏の広長舌(こうちょうぜつ)相から、仏の真実の言葉であることを明かされ、この経文は釈尊滅後二千五百余年の時に、特に女人の病を治すために説かれたものであると示されます。
 続いて、釈尊から法華経を重ねて演説した涅槃経を与えられた阿闍世王(あじゃせおう)は、それにより、身の大悪瘡(あくそう)の病を平癒するばかりか、心の重罪も一時に消えたこと。
 また、寿命が五十年に定まっていた陳臣(ちんしん)は、天台大師に()えたことによって六十五歳まで寿命を延ばすことができたこと。
 さらに不軽菩薩は、法華経を行じてさらに寿命を増やすことができたことなどの例を挙げられ、法華経を行じるところには必ず病が()え、寿命を延ばす功徳が具わることを示されます。
 次いで、大聖人様の御祈念によって御母上は四年の延寿を遂げられたことを挙げられ、女人の身として病を身に受けた尼御前に対して、一層、法華経の信仰を受持して、病を平癒することを勧められます。
 さらに大聖人様は、命というものは人間一身の第一の珍宝である。一日でも、寿命を延ばすならば千万両の金にもまさる。法華経が釈尊一代の聖教のなかでもぬきんでて勝れているというのは、寿量品のゆえである。
 一閻浮提第一の太子であっても、短命であれば草よりも軽くはかない。太陽のように明らかな智者であっても、若死すれば生きた犬にも劣る。早く志の財を積み重ねて、急ぎ急ぎ病気を対冶されるがよい。
 去年の十月、四条金吾殿が身延に来られた折、あなたの病気のことを大変に心配していると話した。すると「今は大したことはないので気にされていないのでしょうが、明年正月か二月のころには必ず発病するでしょう」と話されたので、私も心配していた。
 富木殿も「この尼御前を杖とも柱ともたのみにしているのに」などと話され、大変心配されていた。
 くれぐれもいうが、身の財さえも惜しむならば、この病気を治すことはむずかしい。  一日の命は三千世界の財よりも勝れている。まず四条金吾殿へお志を示されるがよい。
 法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも、手の指一つを焼いて仏・法華経に供養しなさい、と説かれているのはこのことである。命は三千世界よりも尊いものである。
 しかも、尼御前は、年もまだそれほどとっているわけではない。しかも法華経にあわれたのである。一日生きておられれば、それだけ功徳も積めるのである。ああ惜しい命である。惜しい命である。ご姓名ならびにお年を自分で書いてとくに遣わしなさい。日蓮から大日月天に申し上げようと仰せです。

 ただし、ここでご注意頂きたいのは、これを読んでいる方の中で、御家族を若くして失った方もいらっしゃる事でしょう。大聖人様の「若死すれば生きた犬にも劣る。」とのお言葉によって、傷つく方もいるかも知れませんが、このお手紙は病身の尼御前へ、この法の絶大なる功徳と、適切な治療を四条金吾殿へ依頼するよう、病に生きる気力を失わないように激励されたお手紙であるという事です。
 大聖人様は、南条時光殿の弟である七郎五郎が16歳で急逝された際は、母親の心に寄り添われ、共に哀しみ、激励されました。大聖人様の故五郎のことに触れられた御消息が、八通も現存していることがそれを物語っております。


 【功徳は体験しかない】
 私たちは、御本仏大聖人様の出世の本懐たる、本門戒壇の大御本尊様にしっかりと縁が出来るかどうかによって、命のあり方というものが変ってきます。そのためには「修行」ということが大事です。
 いくら御本尊様を信じているからと言っても、行じていかなければ結果として表れてきません。
 仏の功徳は体験するしかないのです。
 例えば、いくら美味しいものがあっても、食べてみなければその美味しさは解からないし、栄養にもなりません。信仰も同じです。
 正しい教えがあり、信じ行じていく時に、その実証が表れてくるのです。正しい仏法に縁をした私たちは、この法を持ちきることが最も大事です。
 正しい信仰なのだから、入っただけで「もう幸せになれる」「思いが叶う」と自分で決めて思い込んでいませんか?
 病気になった時に「正しい信仰なのにおかしい、病気になるはずがない」と疑ってはいませんか?
 正しい信心をしたら、悩みや病もすぐに消えるかというと、そうではないのです。
 すぐに叶う願いと、そうでないものがあるということを、信心に疑問を持たれたご信徒に、日蓮大聖人様が御指南をされています。
 よく私たちは、大病などになったら、運命だから諦めなきゃしょうがないと思い込みます。
 しかし日蓮大聖人様は尼御前へ、
 「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す」(御書760頁2行)
と言われています。
 正しい信心をしたら、絶対に乗り越えられるんだと聞かされても、今まで経験がないから「この信心したのに何でこんなことになるんだろう」、「何でこんな目に遭うんだろう」と解らなくなってしまうのです。
 その時に大聖人様は
 「心みに法華経の信心を立てゝ御らむあるべし。」(御書760頁15行)
 すなわち「試して見なさい」、「絶対に大丈夫なんだよ」と云われております。
 この心みにということは、体験の大事を示しておられます。
 日如上人猊下も、よく「まずは実際にやってみなさい」、「この信心に命を懸けてみなさい」と御指南されております。
 簡単なことではないけれども、一歩踏み出していくことによって、結果が表れてくるのです。
 この信心は、本当に試みることによって、命を絶対に変えてくれます。それを自分が体験することが大きいのです。本当にそれしかありません。
 誰しも過去世からの罪業を持っています。持っているからこそ信心に励むことも出来るし、励まなければなりません。その罪障を消滅していかなければ、何の為に生きているのかという事になってしまいます。
 この世に生まれてきた本当の目的が、どこにあるかというと、それは人生の根本のところに、罪障を消滅できる教えを持つことなのです。
 それがこの日蓮正宗でなければできません。そうした体験を通して、法華経の信心を立てて行く確信が生まれるのです。
 この尼御前に対しても、そう言われているのだと思います。

 病気は病院で医者に治してもらうというのは当然ですが、その病気も複合的なものもあります。
 「病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥病は倍増すべし。」(種々御振舞御書1067頁)
とあるように、病気の原因を知らずに治療すれば、逆に病気はひどくなる、と仰せです。
 「色心不二」といって心と体は一つです。ですから信心をして命を強くすると、体も強くなってきます。信心を根本として、病院にかかると、「いい医者に出会った」「手術や治療が上手くいった」「薬が殊の外よく効いた」という話は講中でもよく聞く話です。
 大聖人様が仰せのごとく、一日の命は三千界の宝物よりも大事なものです。
 命がなぜ大事かというと、命があれば自分で功徳を積むことが出来るからです。
 自分の力でお題目が唱えられる。勤行が出来る。折伏が出来る。死んでしまったら、いくら自分で修行して功徳を積もうと思っても、もう出来ません。残った人にお題目を唱えてもらうしかないのです。
 また塔婆供養とか、追善回向をしてもらって徳を積むしか方法がありません。だからこそ法統相続・一家和楽の信心が大事になってくるのです。


 【生きていればこそ功徳が積める】
 大聖人様は
 「一日もいきてをはせば功徳つもるべし。」(御書761頁13行)
と仰せです。生きていればこそ自分で功徳を積むことが出来るから命が尊いのです。
 「定業」という罪障さえも変えることが出来るから「命を懸けていきなさい」「一日でも永く生きてしっかりと使いなさい」と御教示されるのです。
 そこが解ってないと、お金の為に、地位の為に、名誉の為に、命を懸けてしまうのです。しかし、信心に命を懸けていくところに仏様の功徳は厳然と顕れるのです。だから「不自惜身命」というのです。

 「私も、あなたの為に御祈念をしてあげましょう。」と法華経の行者の守護を誓っている日天月天などの諸天善神に申し付けて当病平癒を祈念するので、自分の名前と年齢を書いて大聖人様のもとへ届けるよう尼御前に仰せられているのです。
 そして最後に、尼御前の子息の伊予房日頂(六老僧の一人)がひどく嘆いてい
るで、「自我偈」の読誦を勧められたことを述べられています。

 私たちも戒壇の大御本尊様にお目通りした際に、御法主上人猊下が
 「無始以来の謗法罪障消滅、信心倍増、息災延命、家内安全、一切無障礙、現当二世、大願成就の御祈念を懇ろに申し上げました」
と最後に申されます。
 宗祖日蓮大聖人様の血脈を継承される御法主上人に、私たちは大御本尊様へ御祈念していただいている事と、ここで御本仏大聖人様が御祈念されている尼御前も同じです。
 このお手紙をいただいた富木常忍、尼御前は歓喜し、一層奮起して日々の信心に邁進したであろうと思われます。

 さて私たちはどうでしょう。
 自分の息子を大聖人様の弟子として、僧侶にするような方ですから、信心は強情だと思うのですが、大聖人様は、病という「宿業」を消滅するために、更に強盛な信心を試みなさいと仰せなのです。
 それはどういう事でしょうか?
 皆さんも、自宅に御本尊様を御安置申し上げて勤行しておられます。その上で何を試みていないのでしょうか?
 それは折伏です。常に折伏を忘れないということが大切なのです。
 自分は勤行するし、唱題もするし、お寺に参詣する。しかし、自分の為には動くけれども、人の為に一歩を踏み出していくことが出来るかどうか。そこに「宿業」を変える信心があるのです。
 そういうことの上から、御法主上人猊下が、令和3年に向かっての目標を我々に示してくださったのです。それは、折伏していく時にこそ、私たちの宿業を打開していく道があるからです。
 私達は、折伏をして相手の謗法を捨てさせ、正しい信心へと踏み出させてあげるのです。
 信心とは勤行であり、唱題であり、折伏なのです。
 戒壇の大御本尊様にお目通りをさせていただくということも大事な修行です。
 そうしていく時に、私たちが持っている「宿業」さえも変えていけるのです。それを大聖人様がここに御指南あそばされています。
 どうか皆さんも、毎日、生きていることに感謝しながら、仏様のお使いとしての一歩を踏み出して折伏に励み、大きな功徳を積んでいただきたいと念願いたします。


 
     
 

令和元年八月度 御報恩御講拝読御書

(うえ)(の )(あま)(ご )(ぜん)(ご )(へん)(じ ) 弘安三年十一月十五日 五十九歳

 法華
(ほけ)(きょう)と申(もう)すは手(て )に取(と )れば其(そ )の手(て )やがて仏に(ほとけ)(な )り、口(くち)に唱(とな)ふれば其(そ )の口(くち)(すなわ)ち仏な(ほとけ)り。譬(たと)へば天(てん)(げつ)の東の(ひがし)(やま)の端(は )に出(い )づれば、其(そ )の時(とき)(すなわ)ち水(みず)に影(かげ)の浮(う )かぶが如(ごと)く、音(おと)とひゞきとの同(どう)(じ )なるが如(ごと)し。故(ゆえ)に経に(きょう)(い )はく「若(も )し法(ほう)を聞(き )くこと有(あ )らん者(もの)は一と(ひとり)して成仏(じょうぶつ)せずといふこと無(な )けん」云(うん)(ぬん)
(もん)の心は(こころ)(こ )の経を(きょう)(たも)つ人(ひと)は百人は(ひゃくにん)百人(ひゃくにん)ながら、千(せん)(にん)は千(せん)(にん)ながら、一人(いちにん)もかけず仏に(ほとけ)(な )ると申(もう)す文(もん)なり。
御書一五七四㌻七行目~一〇行目)

 
 
        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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